政府に依存するとなぜ不平等が残るのか
前回の連載(24年3月15日号)で日本人の助け合いの文化は、まだ成長の余地があると述べた。ひとつの理由には、社会の不平等を解消するための努力、すなわち「分配の均等化」の役割が、政府の政策にばかり任せられていることがあるだろう。
例えば、地方交付税を考えてみよう。経済的に豊かな地域から徴収した税金を、財政的に厳しい地域へ政府が再配分する制度だ。たしかに、地域間の格差を埋めることには意味があるが、どうしても税金を振り分ける総務省の権限が強くなってしまう。そして、経済的に厳しい地域の議員や首長の力量が、国からどれだけ交付金を取ってこられるかで判断されるようになる。つまり、政府による資金の再配分だけに依存している現状では、地域の経済力を根本から上げることができず、未解決の不平等が残る可能性があるのだ。
この問題に対処する手段のひとつとして「ふるさと納税」がある。ふるさと納税は、人々が好きな地域に寄付をする制度で、寄付した人には税金が還付されたり、感謝の品をもらえたりする特典がある。地方交付税ではなしえなかったが、ふるさと納税は財政資金の流れに寄付した人の意思を反映することを部分的に可能にしている。個人の意思を反映できるこうした制度が当然になれば、日本人の助け合いの文化はより広まっていくだろう。UWC ISAKはその実例といえるだろう。
多様性を認めるだけではいけない
かつて娘が通った、ハーバード大学の隣にある幼稚園の入園式で、院長はこう言った。「一人一人の子どもはそれぞれ違った個性を持っています。これが教育の基本です」。
皆を一律で教育し、偏差値という尺度で評価し、社会に同化する能力を強調する日本と全く異なる教育観だ。ようやく日本でも、さまざまな背景を持つ人々の特性を活かす重要性が認められつつある。
一方で、多様性をただ強調することには、わたくしは抵抗がある。たしかに、異なる視点を持つ人々が集まり議論することで、新しいアイデアは生まれやすい。しかし、それだけに留まっていてはもったいない。ただ単に、他者が自分と異なると認めるだけでなく、その差異を理解し、自分の得意分野を伸ばす中で、私たちは一人でも、社会全体でも成長していく。だからこそ、個性を伸ばすのは非常に重要なことなのだ。
UWC ISAKの創立案でも「得意なところを磨く」ことが謳われている。