わざわざ配偶や子育てを選ぶ人は「異端者」に

こうなってしまった以上、最終的には、配偶や子育ては個人のものから社会のものになるしかないのではないでしょうか。

そもそも、世代再生産を個人のインセンティブに頼っているから少子化が進むのです。資本主義が浸透し、誰もが家族や子育てにまつわるリスクを合理的に考えるようになれば、ホモ・エコノミクスとしての私たちが子育てを躊躇し、配偶すらリスクとして回避するのは当然でしょう。なぜならそれらは投資事業としてはあまりに長期的でベネフィットが不確かだからです。

今後、私たちが「真・家畜人」として資本主義に一層忠実になっていくとしたら、配偶や子育てが納税のように義務化されない限り、それらをわざわざ選ぶのは異端者とみなされるように思います。事実、すでに私たちは衝動的に性行為し妊娠し出産する人を異端者のように眺めていませんか。

熊代亨『人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造』(ハヤカワ新書)

どのみち、IoT化によって一層の監視と介入が促される未来の世代再生産の場は現代人が理想視する家庭とは異なったどこかでしょうし、そのとき従来どおりの家族愛が成立しているともあまり期待できません。

家族愛の手前の段階、ロマンチックラブと配偶の結びつきにしてもそうです。男女が職場で出会い関係をもつことがハラスメントやインモラルとみなされやすくなり、マッチングアプリが台頭してきている昨今の風潮は、お見合い結婚が20世紀風の自由恋愛に根差した結婚に変わっていった、その変化のさらに次の段階が訪れつつあることを暗に示していないでしょうか。

つまり功利主義に基づいてハラスメントを回避しあい、資本主義に基づいてコスパやタイパを最大化しあう、そのような要件を一層満たす出会いが望まれ始めているように見えるのです。

生産性や効率性のために人間が性別を捨てる未来

性交同意書の導入もその一端かもしれません。性交同意書は性行為の領域に功利主義や社会契約のロジックを徹底させるツールで、一面としては男女双方の自由を尊重するものですが、別の一面としては中央集権国家に性行為の差配を委ね、管理させるものでもあります。

工場ではなく家庭で子育てすること、専門家でもない個人が子育てをすること、自分の身体で妊娠し出産すること、さらに男女が身体を用いて性行為すること、これらがすべて忌避されるようになっても私は驚きません。

生産性や効率性のために人間が性別を捨てることについても同様です。ここ数百年の人間は動物としての性質を一層自己抑制する方向へと、“文化的な自己家畜化”を促す文化や環境からの求めのままに変わり続けてきたのですから。

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