食べることは、生きることそのもの
食を考えるとき、忘れてはならない重要な視点がある。
それは〈動的平衡〉の視点である。動的平衡とは、私の生命論のキーワードとなる概念だ。先に、(カロリーの補給は)「自動車にガソリンを入れるようなものである」と書いた。しかし、これはあえてこう書いたものの、実は、誤った見立てなのである。食べることは、単に、カロリー(エネルギー源)を補給するだけの行為ではない。食べることは、生きることそのものなのである。
それは、どういうことか。
ご存知、中世期の古典、鴨長明による『方丈記』の冒頭の一節である。これほどみごとに生命のありようを活写した表現を私は知らない。
私たちの身体でもこれと同じことが絶えず起きている。
私たちは食べ物と身体の関係を、ガソリンと自動車の関係と同じものだと捉えがちだが、それは正しくない。食べ物は、摂取されると、大半は全身の細胞に散らばって、そこに溶け込んでいってその一部となる。
つまり、ガソリンと自動車のたとえに戻れば、ガソリンの成分が、自動車のタイヤ、窓、座席、エンジンのネジなどに成り替わっていく──という奇妙なことが起きていることになる。
「ウンチの主成分」は自分自身の細胞の残骸
それだけではない。
身体のあらゆるパーツは、ものすごい勢いで絶えず分解されている。それは、古くなったから、使えなくなったからではなく、たとえできたてホヤホヤのパーツであっても、情け容赦なく分解され、捨て去られている。その分、摂取した食べ物の成分を使って絶えず再合成が行われている。つまり、かつ消え、かつ結ばれている。
では、私たちの身体のうち、いちばん速いスピードで、入れ替わっているのはどの部位だろうか。
それは消化管の細胞である。およそ2、3日で入れ替わる。だから、ウンチの主成分は、食べかすではなく、自分自身の細胞の残骸なのである。
つまり、食べることは、自分自身を作り変えることであり、自分の生命は、絶えず移り変わる流れの中にある。これを私は「動的平衡」と呼ぶ。絶えず動きながらバランスを作り直すこと。生命のもっとも本質的な姿である。
だからこそ生命は、リジリエント、つまり柔軟であり、適応的でありえる。病気になっても回復し、怪我をしても治る。
それゆえ、今日の私は昨日の私ではない。
数週間もすればかなりの部分が入れ替わっている。一年もたてば物質レベルではほとんど別人となっていると言っても過言ではない。久しぶりに知人に会ったら「おかわりありませんね」ではなく、「おかわりありまくりですね」と挨拶するのが正しい。
流れ行く生命の動的平衡の前では、よいことも、悪いことも、盛者も貧者もすぐに移り変わっていく。方丈記の詠むところそのものである。何かに固執することは意味のないことなのだ。