子ども時代は「できること」を開拓していく時期
こうした「願望」と「可能」の間には、「子ども」と「大人」を分岐する境界線があると内田樹先生は述べています。
大人というものは、自分が何者であるか、自分がこれからどこに向かって進んでゆくのか、何を果たすことになるのか、ということを「自分の発意」や「独語」の形ではなく、「他人からの要請」に基づいて「応答」という形で言葉にする人のことを指すのであり、これこそが「人間の社会」が始まる基本条件のようなものであるとしています。
そもそも子ども時代というのは「できること=可能」を開拓・拡大していく時期です。自分は何ができるのか、為すことができる範囲はどの程度か、そういうことを知る時期なんです。だからこそ、学校を始めとした社会の中では、子どもに「まだ知らないこと」を教えるし、「できないこと」でも頑張ってやってもらおうとするわけです。
そういう活動を通して、子どもの「可能」を開拓・拡大するというのが学校の機能の一つなんです。この時期に「やりたいこと=願望」を中核にしてしまうと、可能の範囲を知らずに「できる」と勘違いしたり、未知のものを「やりたくない」と子どもの快不快だけを基準にして排除してしまう恐れがあるのです。
「不快にさせない風潮」が社会に蔓延してしまった
子どもを不快にすること、褒めて伸ばすこと、願望で判断させること。互いに関連がありそうな社会の風潮ですが、これらの考え方が誤解されたり、都合よく改変されたり、極端に偏ることで、子どもの成長を阻害する可能性があることを述べました。
成長に必要な「不快に耐える肺活量」を持つことで子どもたちが「昨日の自分」よりも成熟すること、できないことを共有して「どんな自分でも、これが自分だ」と思えること、知らないことやできないことに取り組むことで「可能の範囲」を増やすことなどはすべて、子どもが社会的に成熟する上で欠かせないことのはずです。
しかし社会では、子どもを不快にすることを避け、できない自分を棚上げし、「やりたくないことはしない」というマインドが育つような風潮が中心になりつつあります。
こうした風潮が強くなってきているのは、今までの社会が子どもを抑え込んできたことへの揺り戻しなのか、養老孟司先生が述べるような「西欧近代的自我」が導入されたこと(唯一無二の「自分」があって、それは本質的に変わらない。だからそれを尊重しなければならない。周りも認めねばならない。阻害するのはおかしい。という感じ)が関連しているのか、確実なことは言えませんがさまざまな背景がありそうです。
いずれにせよ、本稿で紹介したような子どもたちの不適応の増加は、こうした社会の風潮が学校や家庭にまで降りてきていることによって生じたと私は推測しています。
【参考・引用文献】
内田樹(2008)『街場の教育論』ミシマ社
内田樹(2017)『困難な成熟』夜間飛行
養老孟司(2023)『養老孟司の人生論』PHP文庫