そもそも大人が子どもを信頼できていない

こうした「現実の加工」を子どもへの「優しさ」と考えるのは、周囲の大人が抱えている「子どもを信じることができない弱さ」への言い訳です。自己肯定感という言葉があります。定義は色んな人が色々言っていますが、ここでは文字通り「ありのままの自分を肯定する感覚」と思っていただいて問題ありません。

人間にはポジティブな面もあれば、ネガティブな面もあるのが当たり前です。このいずれに対しても「自分の大切な一部だ」と思えること、そういうネガティブな面を持つ自分であっても「肯定することができる」という実感を指して「自己肯定感」と呼ぶのです。

前回の記事でも紹介した「世界からの押し返し」とは、こういうネガティブな面もきちんと子どもに示していきましょう、そして「関係性の中で不快感を納める」とはネガティブな面がある子どもであっても「そういうあなたが大切だ」「そんなあなたと生きていく覚悟がある」ということを伝えていきましょう、ということなんです。

大人に注意される子どものイメージ
写真=iStock.com/takasuu
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同じく「子どもを不快にすることへの拒否感」と絡んできそうな社会の風潮に「やりたいことを大切にする」というものがあります。一見すると「やりたいこと」で生きていくのは素晴らしいことのように思います。ですがこの風潮も、「やりたくないことはしなくていい」という形に変質してしまうリスクがあることを忘れてはいけません。

「やりたいこと」は他者を必要としない

マンガ『ONE PIECE』の第一巻で主人公のルフィが出港の際に、たった一人船の上で「海賊王に俺はなる!」と叫びます。まさに「やりたいこと」を叫んでいるわけですが、こうした「やりたいこと=願望」には、他者を必要としないという特徴があります。願望はあくまでも個人の思いであり、他者の存在は本質として重要ではありません。誰かから承認されなくても、「○○をしたい」という願望は持つことができますからね。

これに対して「できること=可能」は他者の存在が必要です。「○○ができます」と言うときには、その「○○」を必要としている人がそばにいることが前提です。

私は一応「カウンセリングができます」と言えますが、この言葉は「カウンセリングを必要としている人」が存在するからこそ成り立つものなんです。一人でシャワーを浴びているときや、布団に入るときに「私はカウンセリングができます」とは言いません。そこには他者が存在しないのですから。