子どもの「特徴・特性」には踏み込まなくなった

例えば、通知表一つとってもこの50年くらいでかなり内容が変わっています。

50年前の通知表は、かなり子どもの問題点を指摘する形で記述されていましたが、最近ではそういった内容を書くことはまったくありません。学校が「子ども個人の特徴・特性について、批判的に明示すること」は皆無になったと言ってよいでしょう。

他にも色んなことが変わりました。成績が貼り出されることはなくなったし、食べられない給食を前にずっと残されるということもなくなりました。昔から変わらず存在していた「宿題、やったけど忘れてきました」という子どもには「じゃあ、明日持ってきてね」で終わりです。下手に「本当はやってないだろう」などと言えば、たちまち親から「うちの子がうそをついたというのか」と電話が入ります。

私はかつて肥満体型でしたが、通っていた小学校では男女問わず肥満体型の子どもだけ給食時間に集められて食べ方指導をしていました。今の時代だと考えられない話ですよね。このように、子どもの「特徴・特性」に対して、ずかずかと学校が踏み込んでくることがなくなり、証拠が無いことについては追及せず、子どもが不快に感じるような関わりを学校は相対的にしなくなりました。

「子どもを不快にさせる」ことが忌避されている

このような「学校の変化」は学校単体で生じることは決してありません。

社会からそうした「入力」が絶えずなされているからこそ、学校という「惰性の強いシステム」でさえ変わってきたと考えるのが妥当です。すなわち、社会全体に「子どもを不快にさせる」ということへの忌避感・嫌悪感が広がっており、それを受けて学校というシステムでさえ変化してきたというわけです。

大人と手をつなぐ子どもたちのイメージ
写真=iStock.com/txavierarnau
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ただ、本当に「子どもを不快にさせる」ということが問題なのでしょうか?

「子どもの不快」は反応の仕方の一つに過ぎません。その「不快」がどういったしくみで生じているのかを考えて接することが重要であり、「不快」だから不快にした人が悪いとか、「不快」を除かねばならないというわけではないはずです。子どもが感じる不快をきちんと見分けていくことは、とても大切なことです。

見分ける必要のある不快の一つは「要らない不快」です。体験することに何の意味もない不快であり、例えば、いじめられること、人格を軽んじられること、暴力を受けることなどです。こういうものは、できる限り自分に降りかからないようにすることが大事であり、そういう状況を避けたり、逃げたりすることが大切です。