『源氏物語』で最後に勝つのはセレブではない明石の上
そして『源氏物語』の最後の勝利者は、地方に土着した播磨(兵庫県)守の娘で、源氏の女君の中では日陰の役割に終始していながら、源氏が最も信頼を置く妻の「紫の上」に託した一人娘が中宮となり、皇太子の祖母となったことにより、国母とまで呼ばれた「明石の上」、地方を知り、京を生き抜いた女性なのである。『源氏物語』もまたシンデレラ物語であり、後宮の同人誌から始まり、現代の二次創作まで読み継がれてきた理由の一つである。
『紫式部日記』には、『源氏物語』を読んだ一条天皇が、「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ、まことに才あるべし」と評したという、国文愛好者には有名な話がある。「この人はあの『日本書紀』をしっかり読んでいるに違いないだろう、大変学識のある人だ」というこのひとことはなかなかに興味深い。なぜ『源氏物語』から『日本書紀』が連想されるのだろう。
そもそも平安中期は、『六国史』のような歴史書のない時代である。現代でもこの時代については、歴史学より国文学の研究が盛んなのはそのためでもある。つまり、一条天皇の時代には、歴史書など過去の遺物にすぎなかったはずなのだ。
『日本書紀』を履修した紫式部が書いた後宮の同人誌
一方、日本国が制作した歴史書の『六国史』の中でも『日本書紀』はどうやら特別視されたらしい。もともと『日本書紀』で最も長いのは天武・持統朝で、かなり行政記録的な内容になっており、国家運営というのはこうして軌道に乗るのだな、という実感がつかめるような内容になっている(それ以前の天智朝の記録は壬申の乱でかなり散逸したようでもある)。
『日本書紀』は現代史の教科書として書かれたもので、『古事記』が推古天皇の時代でフェイドアウトするように終わるのとは全く異なる様式の歴史書だった。そして『日本書紀』は以後の歴史書に比べてはるかに美文的な修辞が多い。これは中国南朝の梁で編まれた『文選』のような名詩文集から表現や内容を借りている部分が多いからで、いわば平安時代の漢文使用層よりかなり高いレベルの文章で書かれている。だから9世紀から10世紀にかけては「日本紀講書」という勉強会が行われていた。
つまり『日本書紀』は十分に知られているが、今はもう作れない「伝説の秘伝書」だったのである。そうした本をしっかり学び、歴史というものを見極めて物語(つまり、今風にいえば「どこかの日本」の歴史ファンタジー小説)を創っている、これが一条天皇の『源氏物語』に対する率直な感想だったと思う。