紫式部は「源氏物語」で何を伝えたかったのか。『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)の共著者でライターの北山円香さんは「全五十四帖をどこで区切るかで全く異なる趣が見えてくる。最も単純な読み方は『光源氏の生涯と亡きあとの世界を描いた物語』だが、文学者はほかにも多くの読み方をしてきた」という――。

※本稿は、源氏物語研究会=編『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

版画「古今姫鑑」より「紫式部」・月岡芳年筆
版画「古今姫鑑」より「紫式部」(写真=月岡芳年筆/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

紫式部はどんな女性だったのか

めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにしよはの月かな

紫式部によるこの和歌は、久しぶりに会うことができたにもかかわらず、あっという間に帰ってしまった「あなた」を惜しんだ一首です。一見すると男女のやり取りに思えますが、お相手は幼馴染の女性でした。紫式部は、男性よりも女性に対して強い関心を抱いていたのではないかと指摘する人もいるくらいです。

対して、広汎な系図集である『尊卑文脈』を紐解いてみると、「御堂関白道長妾」という信じられない記述が見つかります。いったい紫式部は、どのような女性だったのでしょうか。

「紫式部」は通称、本名はわかっていない

この疑問を解消するのは、一筋縄ではいきません。実は、広く知られている「紫式部」という呼称すら通称で、彼女の生前に用いられたものではなかったのです。本来の女房名は「藤式部」であったということが、『栄花物語』などから確認できます。宮中で働く際に用いられる女房名は、父兄や夫の官職から名付けられることがほとんどでした。

藤式部の場合は、父・藤原為時が式部の丞であったことから名付けられたと考えられています。彼女の本名については、『御堂関白記』などから、「藤原香子」ではないかと指摘する説が唱えられましたが、賛否両論があり、定説となるには至っていません。

それでは、「紫式部」という呼び方は、いつから使われているのでしょう。寛弘5年(1008)年、宮中で祝賀の宴が催された際、貴族の藤原公任が「若紫さんはおいでになりますか」と声をかけたという記録が『紫式部日記』に残されています。これにより、この段階では「紫式部」の名前が浸透していなかったことが推測できます。

「紫式部」の名は、「紫の物語」(源氏物語)が普及していくなかで、これを書いた式部という意味で、次第に広まっていったものと考えられます。