なぜ紫式部は「年の差婚」に踏み切ったのか

宣孝のプロポーズを受け入れたのも、北国の雪に辟易していて京へ帰りたさからばかりではないだろう。心奥は分からず推し量るしかないが、既に年齢は二十七歳。『梁塵りょうじん秘抄』は、平安時代末期に後白河法皇が編集した歌謡集だが、その歌謡に依れば、

女の盛りなるは、十四、五、六歳、二十三、四とか、三十四、五にし成りぬれば、紅葉もみじ下葉したばことならず(『梁塵秘抄』)

二十七歳は女盛りの末期、紅葉の下葉になりかけた年齢である。堅物の学者の父の許で虫ぞろぞろの書物に囲まれて、華やかさも面白味もない生活に飽き飽きし不満があるところへ、いささかバサラがかった真逆な性格の宣孝にひかれたのか。

宣孝にしてみれば、多数の女を経験しているので、二十七歳にもなった学者かぶれの女を、手に入れてみるかという遊び心か、あるいは天皇や道長に衝撃を与えるほどの大学者為時を縁者に持つことによる出世の手立てか。

結婚生活は3年目で終わった

いささか週刊誌並みの当て推量になったが、紫式部は父を残して帰京し、宣孝と結婚した。だが夜離よがれが続き、哀れなことに夫は結婚三年目に亡くなった。

夫の死去に伴い世のはかなさを嘆いていた頃、陸奥名所絵に塩焼く煙で有名な塩釜の絵を見た紫式部は、

見し人の煙となりしゆうべより 名ぞむつまじき塩釜の浦
(あの人が荼毘だびの煙となった夕方から、塩焼く煙の絶えない塩釜の浦は、どうしてか名を聞いただけでも親しく思われるわ)
紫式部(『紫式部集』)

と詠み、夫を喪った身を悲しむのであった。

多情であった夫だが、この歌からは紫式部にとって短い結婚生活も満更ではなかったように思われる。親子ほどの年齢差のある夫婦は、『源氏物語』のヒーロー光源氏とヒロイン紫上がそうであった。

この歌は『源氏物語』で、あっけなく死んでしまった夕顔を偲ぶ光源氏の歌、

見し人の煙を雲と眺むれば 夕の空も睦まじきかな
光源氏(『源氏物語』第四帖「夕顔」)

に生かされているのではとの説は、正しいだろう。

空行く煙が間もなく消えるような、紫式部のあっけない結婚生活だった。

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