娘を道長家に取られた母は号泣した
公卿にとって一家の娘は、状況さえ合えば入内の夢を懸けて当然の〈宝〉だった。それが召使である女房になり果てるなど、屈辱以外の何物でもない。だが道長から娘を出仕させよと請われれば、父も一家の者たちも断ることができなかった。
「世、以て嗟と為す(世間はこれを嘆いている)」とは、実資が『小右記』(長和二〈1013〉年七月十二日)に記した言葉である。そんななかで、故道兼の娘も、威子の女房にと声を掛けられた。
父が長徳元(995)年に亡くなった時、母の胎内にいた姫で、この寛仁二年には24歳。上流貴族に縁づかせようと夢見てきた母は号泣した。「良い話と思って言うのではないの。でも道長様の奥様があんまり強引におっしゃるから」。兄の兼隆も泣いたが、「断ってはこの兄の立場が悪くなる。道長ご一家の世は永く続きそうだし」と露骨に自分の保身を先に立てた。
ところでこの母は道兼の死後に再婚しており、その相手が、至愚の大臣・顕光だった。しかし相談されても彼は「何も麿に言うな。今は何事も考えられぬ」とにべもない。敦明親王の春宮退位の巻き添えを食った実娘・延子のことで頭がいっぱいなのだ。
果ては道兼が夢枕に立つやら物の怪となって現れるやら、姫は出家まで考えるやらの愁嘆場となったが、結局道長家に逆らうことはできなかった。姫は「二条殿の御方」という名で威子に仕える女房となった。
文化と情報と人脈が「一極集中」していった
威子側は彼女を特別待遇とし、道長の息子たちすら容易に近づかせなかったという(『栄花物語』巻十四)。だが、妙ではないか。人に会わせぬなど、これではまるで深窓の令嬢である。応接したり儀式に参加したりと、人前に出て立ち働いてこそ〈女房〉ではないのか。――違うのである。
この姫を始めとして、道長家が吸収した貴顕の女君たちはいわゆる〈女房〉ではなく、彰子、妍子、威子たちの〈装飾〉だった。彼女たちは、その出自一つで道長家をさらに輝かせた。そして道長家は彼女たちを雇用することで、自分たち一家が他とは別格の存在であることを上流貴族社会に見せつけたのだ。
加えて、姫にはそれぞれの女房がおり、女房はそれぞれのネットワークを持っている。姫たちを握ることで、道長一家は貴族社会の入り組んだネットワークをも把握し、利用することができた。文化と情報と人脈の、道長家への〈一極集中〉である。
そしてその〈施策〉を練り実行したのは、道長というよりも道長家の女たち――妻の倫子と長女の彰子だった。