正妻以外にも妻はいたが「愛人」扱いではなかった

ただし、道長の結婚でみたように、舅に気に入られるのはなかなか難しい。普段から、「男らしい振る舞い」をしていないと、女性の両親の目にとまることはないのである。

結婚式で、今と大きく違うのは、夫である婿の両親が、結婚式に参列しなかった点である。これも、今と当時の結婚式がまったく逆だったことを、たいへんよく表している。このような結婚式をあげた妻が、正式な妻だった。

源氏物語』の正式な妻には、ほぼ結婚式が描かれている。光源氏ひかるげんじについていえば、葵上あおいのうえ紫上むらさきのうえ女三宮おんなさんのみやの三人にだけ、三日夜餅みかよいのもち(当時の婚姻儀礼)のことが記されている。この三人が正式な妻であり、他は妾的存在である。

もっとも妾も当時は「つま」とよんでいたから、後世のような「日陰者的」存在ではない。

世尊寺伊房詞書ほか「源氏物語絵巻」和田正尚模写、1911(画像=国立国会図書館デジタルコレクション

10世紀中ころに結婚した道綱母は、父や祖父が、四位・五位で諸国の国守を務める受領クラスであったが、上層貴族である公卿の御曹司(藤原兼家)と結婚できた。しかし、11世紀以降になると、貴族の中でも家柄が決まってきたので、受領層が公卿層の息子を、結婚式をあげ、正式に婿に迎えることは、あまりなくなってくる。同じ階層どうしの結婚が多くなるのである。

また、公卿層の娘でも、父や母などの財力ある後見人を亡くした場合、婿を取る費用がないので、正式な妻になれず、妾になったり、女房勤めをすることさえ多くなっている。

紫式部のような下級貴族の女性は豊かな受領の妻を目指した

庶民層の結婚のあり方は、史料がのこっていないので詳しいことはわからないが、結婚式などはなかったものと思われる。男女が意気投合すれば性愛関係が成立し、継続すれば妻の家で生活を始めたのであろう。

10世紀の末ころ、受領層の紫式部の伯父藤原為頼ためよりが、女の孫が生まれたときに詠んだ歌が、当時の受領層の気持ちを代弁している。

きさきがね もししからずば よき国の わかき受領の 妻がねかもし
(この度生まれた孫娘は、将来の后候補か、もしそうでなければ、豊かな国の若い受領の妻候補であるだろうよ)