アトリエ建築家の深謀遠慮

彼の照明計画はとてもシンプルなものだ。細かいことをいえばいろいろあるのだろうが、基本的には多灯分散式のルールに則ったうえで、「リビングの照明だけは意識的に照度を落とす」。

それだけである。彼が設計した住宅を実際に見たことはないのだが、おそらく、すみずみまで明るい室内に慣れた人には、一見して「暗い」と感じられる照明計画なのだろうと思う。欧米ほどではないだろうが、日本の一般的な住宅よりもはるかに深い陰影に包まれているはずだ。

だが、彼はその「暗い」照明計画を施主には一切説明しないという。事前に説明すればその場で猛反対にあうか、せめて調光器くらいはつけてほしいと懇願されるか、いずれにしろ計画の見直しを迫られるからだ。

はたして、新しいわが家に引っ越してきた施主一家は、日が落ちてリビングにあかりを灯した瞬間、あまりの暗さに言葉を失う。

「なんだかリビングのデンキが暗いようなんです。明るくなるように調整してもらえませんか」

すぐさまご主人から連絡が入る。

だが、建築家は動かない。

「いまちょっと忙しいので、そのうち、え、まあ、では、なるべく早めに……」

ごにょごにょ言いながら1週間くらい放っておく。

すると施主はイライラしてくる。あの建築家、訴えてやろうかという気になる――かと思いきや、現実の展開はおおむねこの逆になるという。

住み手は毎晩暗いリビングで過ごしているうちに、しだいに依って立つ明るさの基準が揺らいでくるのだ。そして、こう思い始める。

「そもそも、リビングの明るさはどれくらいが適切なのか。自分はどれくらいの明るさだったら満足するのか。引っ越し直後は暗いと感じたリビングのあかりだが、むしろ以前の家が少々明るすぎたのかもしれない……」

とそこに、建築家が現れる。

「で、その後いかがですか?」
「いや、これはこれでいいような気がしてきました」

藤山和久『建築家は住まいの何を設計しているのか』(筑摩書房)

おおむね1カ月もあれば、たいていの家族は彼が設定したリビングのあかりに慣れるという。

「でも、どうしてそんな危なっかしいことをするんです?」

クレーム回避を最優先に掲げる建築士事務所も多いなか、あえて危険な綱渡りに挑む理由をたずねると、彼はどうしてそんなことを聞くのかという顔をして、つまらなそうに答えた。

「だって、そうでもしないと日本の家はバカみたいに明るくなるじゃないですか」

東アジア特有のまぶしい日差しに適応してきた私たちが、ぎりぎり許せる範囲で行われるスパルタ式の照明計画。日本の夜をただ明るいだけにしないためには、こういうやり方もある。

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