「親ガチャ」にいかなる選択の余地はない

しかし、それらの「ガチャ」と、「親ガチャ」を並列させることはできません。なぜなら子どもにとって、この世界に生まれてくることを自分で選択することは、そもそもできないからです。

生まれてくるということ――すなわち出生は、一方的に与えられる帰結なのであり、それに対して私たちにはいかなる主体性も与えられていません。私たちには、「子ガチャ」のレバーをひねることを選べたとしても、「親ガチャ」のレバーをひねることはできません。そこにはいかなる選択の余地もないのです。

「人生は全部ガチャ」は自己責任論と紙一重の理論

松本が述べるように、人生は様々な偶然にさらされています。そうした偶然を受け入れながら、自分の人生を形作っていく――彼は、それが常識的な人生観である、と言いたいのかも知れません。筆者もそのこと自体には賛成です。

戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)

しかし、「親ガチャ」に見られる出生の偶然性は、人生のなかで起こる様々な偶然とは、やはり一線を画したものであるように思えます。両者の間にある違いを無視することは、私たちの社会が遭遇している深刻な社会問題を、むしろ矮小わいしょう化することになるのではないでしょうか。

もっと単純に言ってみましょう。たとえ人生が無数の偶然に左右され、そのほとんどが仕方ない現実だとしても、生まれた家庭によって将来の経済状況が決定される社会は、やはり間違っているのです。そこから目を背けることは、苦境に陥った人々に追い討ちをかける、非情な自己責任論と紙一重なのではないでしょうか。

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