家電は買い直せるが、親は「選択のやり直し」がない

第一に松本は、「親ガチャ」を同じように並び立つ様々な「ガチャ」と同列に位置づけています。人生において起こることはすべてが「ガチャ」であり、「親ガチャ」もその一つに過ぎない、ということです。

たとえば「子ガチャ」は、生まれてくる子どもがどんな特性を持っているか分からない、ということを指しているでしょう。また「家電ガチャ」は、買った家電がちゃんと望み通りの働きをしてくれるか分からない、ということを指しているでしょう。そうした、事前にはすべてを知り尽くすことができない選択の一つとして、「親ガチャ」があると捉えているのです。

しかし、本当にそうでしょうか。筆者はそのようには考えません。確かに人生には様々な「ガチャ」があります。しかし、そのなかでも「親ガチャ」には、無視することのできない独自性があるはずです。

まず挙げられるのは、その「ガチャ」によってもたらされた影響を、後からやり直すことができない、ということです。「家電ガチャ」であれば、選択をやり直すことができます。もう一度、別の商品を購入すればよいからです。

一方で、貧しい家庭に生まれ、十分な教育を受けられなかった子どもが、その経済的な条件を挽回するのは、家電ガチャとは比較にならないほどの困難を要します。あるいは、児童虐待を受けた子どもが、その影響に囚われずに生きていくことは、それよりもさらに困難であると言えるでしょう。

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「親ガチャ」はレバーを回すことすら選べない

第二に、松本は「親ガチャ」を、人間が自分で選択することのできる偶然性と並列させています。彼の言葉で言えば、「子ガチャ」や「家電ガチャ」がそれに相当します。そもそも「ガチャ」は、レバーを回さなければ玩具やアイテムを引き当てられないのであり、そこには偶然性を選択するという主体性が要求されます。

レバーを回すのは自分であり、レバーの結果が何であるかは選べないにしても、とにかくレバーを回すか回さないかは選べるのです。このように、偶然性に支配された選択の機会が人生に幾度もあることは、確かに真実でしょう。