技術・商品開発への先行投資が花開く

縫製技術も飛躍的に高まっていった。

昭和32年(1957)3月、岡崎勧業会館別館で催された京都縫製技能者競技大会のブラジャー部門で、北野工場縫製技術者チームは2位以下を大きく引き離して見事優勝を飾っている。

縫製機械の開発分野でも優秀な技術者が育っていた。

工務室代表の小島鋭太郎は「万能ギャザー取り押さえ金具」(昭和34年)や自分の頭文字をつけた「EK式万能自由ガイドラッパ」(昭和37年)など、新しい発明を次々に発表していった。

1951年7月に移転した室町本社と工場のイラスト(出典=『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一』)

前者はギャザーを編む際にミシンにつけるアタッチメントであり、後者は布やテープを折り曲げたり束ねたりする際に用いるアタッチメントである“ラッパ”を改良したものだ。

技術・商品開発への先行投資が花開いたことで自信をもった幸一は、昭和33年(1958)1月、検品課を設置する。徹底的に商品を吟味し、不良品が混じらないようにチェックしてから市場に出そうというのである。

社員を集めて「返品された商品」を焼いてみせた理由

技術へのこだわりを社内に徹底するため芝居がかったこともしてみせた。不良品が返品されてくると、工場の中庭に社員を集め、その前で焼いたのだ。

(商品を焼くやなんて……)

それがどれほどショッキングなものであったかは、自分で商品を作った者にしかわかるまい。だが幸一は敢えて焼いた。仕立て直して市場に出す方が損失を小さくできることなどわかっている。それでもこうすることで、不良品を絶対に出すまいという戒めとしたのである。

渡辺がそれに反対するはずもない。むしろ幸一を見直していた。

検品課が設置された年(昭和33年)、幸一は思いきった新聞広告を出して世間を驚かせた。

――ワコールのブラジャーは3288枚の型紙で作られており、製品の良否は縫製によって決まります

自信が行間からあふれ出している。

木原光治郎会長の職人かたぎに、渡辺が心血を注いで導入したフォード生産方式、さらには玉川たちがアメリカから学んだ世界最高水準の技術が加わり、和江商事はこれからも縫製技術で他社を圧倒し続けることを、幸一はここに高らかに宣言したのである。