実は、清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられてしまう。要するに、殺人事件を起こしたことで、現職解任の処罰を受けたということである。

とはいえ、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。しかも、その失職さえも、一時的なものにすぎなかった。遅くとも万寿元年(一〇二四)のうちには、新たに伊勢守を拝命していたのである。

そして、これに続けて大和守と信濃守とを務めた頼親は、その晩年にまたも大和守に任命されたのであった。致信殺害事件の後にも頼親の中級貴族としての人生が順調であったことは、否定すべくもあるまい。

貴族社会は「悪徳に満ちた世界」だった

繁田信一『わるい平安貴族』(PHP文庫)

さらに、藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの郎等の一人を失ったという以上には、まったく痛痒を感じることがなかった。寛仁四年あたりに丹後守に任命された保昌は、その後、再度の大和守拝命を経て、摂津守在任中に没するのであった。

先に見てきたのは、まぎれもなく、王朝時代の貴族社会をめぐる現実の一つの側面であった。われわれが「王朝貴族」と呼ぶ人々の周囲にあったのは、悪事を働いた者が臆面もなく幸せに暮らしているような、悪徳に満ちた世界だったのである。

致信にしても、もし頼親による復讐ふくしゅうをうまくかわすことができていたならば、当麻為頼を殺した凶悪犯であったにもかかわらず、妹の清少納言とともに人生を謳歌おうかしていたのではないだろうか。

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