最新の研究による秀次の自死の理由

秀次は自分の意思で出奔したのか、秀吉の命で入山したのか。いずれにせよ、秀吉側は10日、各大名に秀次を追放した旨を伝え、同じ日に石田三成や増田長盛ら4人が、秀次を高野山に遣わしたという連署状を出している。つまり、秀次の非を臭わせ、政権の正統性を喧伝したのだが、この先は学説が分かれる。

秀吉が高野山の僧の木食もくじき応其おうごに、秀次の監視を命じたところまではいい。問題はその後で、福島正則ら3名が検死役として高野山に行き、7月15日に秀次は切腹させられた、というのが従来の説だった。すなわち、秀次は切腹するように政権に命じられた、と考えられてきた。

ところが矢部健太郎氏は史料を精査し、秀吉の許しを得られないと知った秀次が、無実の罪を晴らすため、高野山での蟄居ちっきょという秀吉の命に反してみずから切腹した、と説く(『関白秀次の切腹』KADOKAWAほか)。事実、『御湯殿上日記』には「くわんはくどのきのふ十五日のよつ時に御はらをきらせられ候よし申、むしちゆへ、かくの事候のよし申なり(関白は昨日15日の朝10時、切腹なさったそうだで、無実だからこうしたとのことだ)」と記されている。

仮に秀次が冤罪えんざいを訴えて腹を切ったとすれば、政権の誤りを主張された秀吉側は放ってはおけない。そこで、秀次に後付けで謀反の罪を着せたというわけだ。矢部氏は「天下の大罪人・秀次による『謀反事件』として一貫性のある説明をするため、全く罪も責任もない妻女の大量殺戮という、通常では理解不能な方法でもって幕引きを図ったのである」と記す(『関白秀次の切腹』)。

三条河原に送られた三十数名

矢部氏の説には京都大学名誉教授の藤井譲治氏が、秀次はやはり秀吉の命で切腹したと、史料をもとに反論して結論を得ていない。だが、秀次の意思がどうであれ、秀吉が想像を絶する殺戮を行った事実は変わらない。いよいよそれを見ていきたい。

秀次が切腹した際は、小姓の山本主殿、山田三十郎、不破万作、雀部重政、および東福寺の虎岩玄隆の5名が後を追い、同じ日に側近の木村重茲、粟野秀用、熊谷直之、白江成定らが自刃した。

さらには、26日には木村重茲の妻と娘が三条河原で殺され、嫡男とその嫁の首がさらされ、13歳の女子が磔に架けられたという(『兼見卿記』)。ほかの側近の家族にも、同様の仕打ちがあったのだろうか。また、秀次と関わりが深かった6人が、蟄居を命じられた末に成敗されたという記録もある。

そして、いよいよ8月2日を迎える。『上宮寺文書』などによれば、三十数名が7台の車に分乗させられ、京の街を引き回されたのち、三条河原に送られたという。