ねねへの遺産は茶々や養女の豪より多かった
これは前もって渡す
七千貫文 茶々に与える
七千貫文 豪へ与える
合計二万四千貫文
(原典は『豊大閤真蹟集』井)
ねねへの分配が一番多く、茶々、豪と続きます。公用のお金が、3人の女性に分配されていくのです。この後、公家や門跡にも形見分けの金銀が送られています。また、諸大名には総計で黄金300枚を配っています(『義演准后日記』第1273頁)。
秀吉、人生最後の大盤振る舞いです。(編集部註:一万貫文=現在の約12億円)
これまで、日本での通説では、ねねは豊臣側の人間であり、豊臣家の存続に加担するのが当然、あるいは、豊臣を裏切って徳川の肩を持ったとされてきました。しかし、豊臣家の一員である以上に名だたる武将たちの「母」として、財力のある「個人」として、「家」に属さない独立した唯一無二の存在として生きていました。
ねねは1624(寛永元)年に病死します。彼女が死去したという報を受けると、徳川秀忠はねねの甥に宛てて、江戸から京都にお悔やみの手紙を書き送っています。
ねねは生涯、人との繋がりを切ることがありませんでした。現実から目をそらさず自分で筆をとって手紙を書いて、離れて住む人たちとの交流を絶やさなかったのです。
天下統一という波乱の時代を、ねねはしっかりと生き抜きました。