夫の朝鮮出兵に反対して天皇にも働きかけたねね
娘と息子を失った後、ねねと秀吉の夫婦の距離はだんだん広がっていきます。秀吉が、朝鮮半島、中国大陸へ進出する野望を抱くのですが、ねねはその計画に反対でした。しかし、秀吉はねねの諫言も聞き入れません。
九州の博多は、大唐(当時の中国の明朝)と、そのさらに西にある南蛮国(ヨーロッパ)の船が着くところでした。秀吉はその博多に城を建設する必要があると判断し、築城を始め、さらに、高麗国(当時の朝鮮)に軍を送ります。しかし、ねねは、断固として他国への侵入に反対でした。
ねねは義理の息子に当たる後陽成天皇にかけ合い、勅旨を出してもらいました。義理の息子というのも、秀吉は関白になる前に、近衛前久の養子になり、「名家の公卿の息子」として関白になった経緯があります。その後、近衛前久の娘の前子がねねと秀吉の養女となっており、前子は即位が確定した後陽成天皇と結婚しました。この縁組と結婚により、ねねは、天皇の義理母にもなっていたのです。
時の天皇、後陽成天皇は、秀吉に宸翰(天皇の筆跡)を送ります。
「高麗国へ向かうには、玄界灘の大波を越えていかなくてはならず、恐れ知らずです。どれくらい大勢の人間を派遣しても成功するとは思えないうえ、朝廷のためにも、天下のためにも、もう1度、考え直すべきではないか」と諭しています。「思いとどまって、案を考えるほうが、自分には喜ばしい」と、その思いを伝えるために勅使も派遣しました。
ねねと秀吉の距離のさらなる広がり
朝鮮に渡ろうというのは、どう考えても無謀なのです。
それでも、秀吉は、諦めませんでした。
秀吉は拠点として城を築いていた九州の名護屋(現・佐賀県唐津市)に茶々を呼びよせました。ねねは大坂に残って手紙を出し、返信を待つ日々が続きます。その中で、1592(文禄元)年6月20日、秀吉からの返信が届きました。
朝鮮半島への航行を翌年の3月に控え、海の波が落ち着く春まで待つので名護屋にて年越しをするという報告です。小田原の時も長丁場でしたが、今回は、6月の時点で次の春まで待つというのですから、相当長い期間ねねのもとを離れることになります。この時期、もはや一緒に暮らすことは、ねねと秀吉の生活の基本ではなくなっていました。
ねねと秀吉は離れたまま春が訪れ、朝鮮へ進軍した後、1593(文禄2)年5月20日にねね宛に手紙が来ました。いつものとおり、戦況の報告から入ります。