歴史上の偉人は、占いをどう活用していたのか

優秀な経営者やインテリ層に限らず、大きな功績を残した人たちは、どのように占いを活用していたのか?

ここからは、歴史に名を残すような偉人たちの占いとの関わり方をお伝えします。

紹介するのは、戦国武将の「武田信玄」と「徳川家康」、カリスマ経営者の「松下幸之助」、現在もビジネスの最前線で活躍する「ビル・ゲイツ」といった4人のレジェンドです。

いずれも伝説的なエピソードですから、語り継がれている間に多少の誇張が含まれている可能性はありますが、その占いとの関わり方には興味深いものがあります。

◆武田信玄――「手相占い」で戦術や戦略を立て、情報戦を勝ち抜く

武田信玄は、占いを戦いに活用した戦国武将として知られています。

占い師の助言によって、「晴信」から「信玄」に改名したのは有名な話ですが、「手相占い」を使って、敵方の運気や弱点を見定めていました。

証文しょうもん」に押された敵方の大将の手形を取り寄せて、手相を観られる軍師に相手の置かれた状況を読み解かせていたといいます。

「相手は強運の持ち主ですから、戦うのではなく、味方につけるべきです」
「この相手は運気が落ちているので、攻めるならば今がチャンスです」

こうした進言を判断材料にして、戦術や戦略を立てていたのです。

信玄には、自分に仕える武将の中で最もいい手相をしている者を選んで、自分の「影武者」に仕立てていたというエピソードも残されています。

戦国時代は風水や陰陽五行説が流行していましたが、信玄は手相占いを駆使して、相手を牽制したり、混乱させることによって情報戦を勝ち抜いていたのです。

江戸の街作りや宗教行政にも絶大な影響力

◆徳川家康――江戸時代の繁栄の背景にある「天源占星術」

戦国時代の最後の天下人になった徳川家康は、「天源占星術」の影響を受けていたといわれています。

天源占星術とは、天台宗の大僧正だった天海てんかい和尚が古代中国の「陰陽五行説」から発展した「四柱推命」をもとに作ったとされる占術です。

関ケ原の戦いに勝利した家康は、1603年(慶長8年)に幕府を開くにあたり、天海和尚に助言を求めています。

家康にとって、天海和尚は政策ブレーンのような存在だったようです。

家康の命を受けた天海和尚は、伊豆(静岡)から下総(千葉)までの地相を幅広く調べ上げ、陰陽五行説にある「四神相応しじんそうおう」の考えに従って、江戸が幕府の本拠地にふさわしいと進言しています。

「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があって、北に高い山がある土地は繁栄する……という考え方です。

江戸には、東に隅田川、西に東海道、南に江戸湾、北に富士山があります。

天海和尚は、「江戸こそが、四神相応にかなう最良の場所」と進言し、家康もそのアイデアを受け入れたのです。

家康は江戸の町を守るため、北東の「鬼門」に寛永寺と神田神社、南西の「裏鬼門」に増上寺と日枝神社を建てていますが、これも天海和尚のアドバイスによるものといわれています。

天海和尚は、家康から秀忠、家光に至る3人の将軍にブレーンとして仕え、江戸の街作りや宗教行政にも絶大な影響力を与えています。

江戸時代が約260年という長い安泰を続けられた背景には、占いの存在が大きく関係していたようです。

写真=iStock.com/Ababsolutum
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