文法の教え方もおかしい。たとえば「no sooner than」は、「No sooner than my mother entered the room, I left the room.」(お母さんが部屋に入ってくるなり私は部屋を出ました)といった、構文の形で覚えさせる。そして「mother」を「aunt」(おばさん)に、「left the room」を「drank tea」(お茶を飲んだ)などと入れ替えて、パターンを変えながら「no sooner than」の使い方を学ばせる。
当然、このような学習方法では英会話は上達しない。自然に英語を使えるようにさせたいなら、「なんで部屋を出たの?」「テストの点数が悪くて怒られると思ったから」というように、ストーリーのある会話をさせるべきだ。
また、日本の英語教育は「和文英訳」「英文和訳」「文法」の理解を重視する一方で、リスニングや発音を軽視している。これは、江戸時代に日本が鎖国していたことが影響している。言葉が通じない異文化との交流は、会話やジェスチャーから探り探り始まるものだ。しかし、鎖国していた日本では、テキストを読む以外に外国語に触れる機会がなかった。杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』のオランダ語訳書を読んで勉強し、和訳して『解体新書』を書いた頃から、日本の外国語習得法は明治の開国を経てもなお、変わっていないのだ。
読み書き中心の学習が変わらないのは、頭の固い文科省のせいだ。画一的な学習指導要領はもはやムダなのに、目をそらし続けているのだ。
ネーティブのALTが添え物のような存在になっている
文科省は総務省や外務省と一緒に、英語のネーティブ話者を先生として招く「JETプログラム」を1987年に創設した。
イギリスなどから848人の1期生を招致して以来プログラムは発展を続け、2023年には5831人もの第37期生が来日。この取り組み自体はいい。しかし、呼んできた人たちが日本の教員免許を持っていないため、文科省は先生ではなく「ALT(Assistant Language Teacher)」、つまり外国語指導助手という位置づけにした。
日本人の先生は英語ができない。ALTと一緒に授業をすると、自分が話せないことが生徒にバレるので、先生はALTを冷遇する。英語をろくに話せない日本人の先生に助手扱いされたら、ALTもやる気は出ない。人数こそ増えて近年は2万人近くになったが、添え物のような存在であることは今も変わらず、まともに機能していない。
母国語が英語の国で「国語」の教員免許状を持っている人を、日本で英語の教師になれるようにするべきなのだが、文科省にはそれができない。せめて、従来の英語教師は英語を論理的に学ぶ「英語学」、ネーティブは実践的な「英語」または「英会話」というように、別個の科目を担当させるべきだろう。