三河の技法を応用した

国宝に指定されている松本城天守は、5重6階の大天守の存在感が大きいが、実際には4棟(渡櫓を加えると5棟)の建築から成り立っている。

大天守の北西には、2重2階の渡櫓で3重4階の乾小天守が連結している。また、南東方向には2重2階の辰巳櫓と1重1階の月見櫓が複合する。漆黒の大天守が両翼に黒い翼を広げたようで、独特の美しさをかもし出している。

これらのなかで、あきらかに古いのは乾小天守である。それを最初に指摘したのは建築史家の故・宮上茂隆氏で、柱間の寸法が大天守は6間半(1間は1.818メートル)なのに対し、乾小天守は6間なので、建築年代が異なるとした。

その後、広島大学名誉教授の三浦正幸氏も同様の指摘をしたうえで、乾小天守の柱についてこう述べている。

「乾小天守では、側柱のほぼ全部と室内の独立柱に丸太材を用いていることも注目され、室町時代の掘立柱建物の特徴を残している。これを建てた石川数正は、かつて徳川家康の重臣であって、三河地方の旧式な技法を天守という新時代の建築に応用した結果と考えられる」(『図説 近世城郭の作事 天守編』)

対家康の城という皮肉

もっとも、松本城天守の建築年代について、厳密なところまではいまも結論が出ていない。辰巳櫓と月見櫓は寛永年間(1624~44)に増築されたことが確実だが、意見が分かれるのは大天守についてである。

三浦氏は「石川数正・康長が文禄元年(一五九二)頃に建てた三重四階の望楼型天守に、慶長二十年(一六一五)頃に譜代大名の小笠原秀政が五重六階の層塔型天守を加え、旧天守は層塔型に改造されて乾小天守となった」と書く(同)。だが、ほかにも文禄2年ごろから乾小天守と渡櫓、大天守が一緒に建てられたという説、また、その着工を翌年とする説などもある。

とはいえ、乾小天守は天正19年(1591)から、遅くとも文禄3年(1594)までに着工されたのはたしかなようだ。じつは、数正は文禄元年(1592)もしくは同2年、秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄の役に際して肥前(佐賀県)名護屋(唐津市)に出陣中に死去している。だから、文禄3年以降の着工であった場合、命じたのは康長ということになるが、それでも数正の構想が受け継がれたことはまちがいない。

したがって松本城の乾小天守は、石川数正がかつての主君である家康を牽制するために建てたという、なんとも皮肉な天守で、それが現存しているということになる。

また、松本城からは石川時代のものと目される金箔きんぱく瓦も発掘されている。金箔瓦は家康の旧領に配置された豊臣大名の城の多くから出土し、信濃では小諸城や上田城でも見つかっている。この瓦にも家康を牽制する目的があったという指摘がある。往時は乾小天守の屋根にも、家康に目を光らせるべく金箔が押された瓦が葺かれていたのかもしれない。

右から数正が建てた乾小天守、大天守、辰巳附櫓(写真=Balon Greyjoy/CC-Zero/Wikimedia Commons