ソ連邦崩壊の悲惨さから「強い帝国ロシア」の再生を目指す

2000年のセルビアのブルドーザー革命、2003年のグルジア(現・ジョージア)のバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命、2005年のキルギスのチューリップ革命など、2000年頃から東欧や旧ソ連圏で起こった「カラー革命」に対して、プーチンが否定的な評価を下すのは、ソ連邦崩壊の悲惨さを体験したからである。

「強い帝国ロシア」の再生を実現すべきだという信念を確たるものにしたことは疑いえない。

プーチンは、レーニンやスターリンとは違って、マルクス主義のような特定のイデオロギーに固執することはなく、大国ロシアの再興のためには様々な考え方を柔軟に取り入れていくのである。

KGBによって育まれた戦略思考

1990年1月に帰国したプーチンは、1991年8月20日、つまり先のクーデター未遂事件の翌日に、KGBに辞表を提出したと自伝にある(前掲、93p)。

しかし、いったんチェーカー(秘密警察)に入った者(チェキスト)は辞めることはできないはずであり、「休眠中のチェキスト」になっただけで、この辞表提出も本当だったかどうかは疑問である。

プーチンの戦略思考はKGBによって育まれた。

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プーチンの戦略思考はKGBによって育まれた(※写真はイメージです)

情報機関、諜報機関に勤務すると、世の中に生起する事象を解釈、解説する際に、独特の分析法を身につけさせられる。

私は、国際政治学者として、若い頃、海外の情報機関でソ連の分析に携わったことがあるが、大学での研究方法とは全く異なる訓練を受けたものである。

プーチンがレニングラードでKGB職員として仕事をしていた頃である。

私の勤務先は、「反ソ連機関」としてKGBによる破壊工作の対象となり、爆破事件で東欧出身の同僚を亡くすという悲しい事件もあった。

ソ連邦崩壊までは、私はこの海外情報機関における「研究・訓練」について、自分の身の安全のために、履歴書に記すことはなかったし、ソ連・東欧圏に足を踏み入れることも敢えて避けたものである。