「恩師の監視役」として送り込まれた?

プーチンは、帰国後、レニングラード国立大学学長補佐官のポストに就く。

このポストにはKGB関係者が就く慣わしであった。

そして、レニングラード国立大学の教授であったアナトリー・サプチャークがレニングラード市ソビエト議長になると、プーチンは彼の国際関係顧問となる。

これが、プーチンの政界進出のきっかけとなるのであるが、実はエリツィン後の大統領有力候補であるサプチャークを監視するためにKGBがプーチンを送り込んだという観測もある。

レニングラード国立大学法学部教授だったサプチャークは、プーチンや、後に大統領になるドミトリー・メドヴェージェフの大学時代の恩師である。

それだけに、KGBにとっては、「教え子」だからという弁明も効く。

「ビジネスマンを信じてはならない」と痛感

ゴルバチョフの改革が失敗し、ソ連邦が解体に向かい混乱が増す中で、プーチンは補佐役として業績を積み上げていく。1991年6月にサプチャークがレニングラード市長になると、プーチンも対外関係委員会議長のポストに就く。

1991年9月にレニングラードはサンクトペテルブルクに改名するが、12月にはソ連邦が解体する。

92年5月に、プーチンはサンクトペテルブルク副市長に、94年3月には第一副市長に任命される。職務としては、民営化の促進、外国企業誘致などに奔走したのである。

舛添要一『プーチンの復讐と第三次世界大戦序曲』(集英社インターナショナル)
舛添要一『プーチンの復讐と第三次世界大戦序曲』(集英社インターナショナル)

エリツィン政権下、1991年11月に副首相に就任したエゴール・ガイダルが断行した市場化推進の経済改革(「ショック療法」)は、ハイパーインフレをもたらし、国民生活を大混乱に陥れた。

この危機に際して、連邦政府は地方政府に天然資源を海外に売却するなどの自由裁量権を与えた。これを活用して、サンクトペテルブルク市は外貨を稼ぐが、その金額に見合うだけの食料が海外から届かなかった。

責任者のプーチンが不正を働いたと批判されたが、真相が不明なまま、この件は闇に葬られた。

プーチンは、この苦い経験から、ビジネスマンを安易に信じてはならないこと、ロシアの天然資源、とりわけエネルギー資源を国家管理することの必要性を痛感したのである。

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