嘘をついて難を逃れる
1984年秋には、レニングラードからモスクワに移り、KGB赤旗大学で1年間の研鑽を積む。その後、対外諜報部に配属され、1985年8月に東ドイツのドレスデンにあるソ連領事館にKGB中佐として派遣された。この地で1990年1月までの4年半を過ごす。
資本主義国ではなく、衛星国の東ドイツ、しかも首都東ベルリンではなく、ドレスデンというのは、エリートKGB職員の行く先ではなかった。
東ドイツで4年半も勤務しただけに、プーチンはドイツ語が堪能になった。
ベルリンの壁崩壊時にドレスデンの国家保安省(シュタージ)の前で大衆暴動が起こったとき、身の危険を感じたプーチンは、「自分は通訳だ」と嘘を言って難を逃れたくらいに流暢なドイツ語を話せたのである(前掲の英語版自伝、79p)。
「性急な改革は禍根を残す」と結論
東欧諸国が総崩れになっていく事態に直面して、共産主義に固執するソ連の保守強硬派は反発し、1991年8月19日にクーデターまで起こした。
これは失敗したものの、ゴルバチョフの権威は失墜し、この危機を救ったボリス・エリツィンに権力は移行していく。
そして、その年の12月、遂にソ連邦が解体するのである。
プーチンは、ドイツの地で勤務していたため、ゴルバチョフ改革で大混乱となった祖国の状況を直接には体験していない。
しかし、ソ連の支配下にあった東欧諸国、とりわけ「社会主義の優等生国」と言われた東ドイツでエーリッヒ・ホーネッカー体制が瓦解し、それをモスクワが止められなかったことは、プーチンに大きな衝撃を与えたのである。
ゴルバチョフが行ったような性急な改革は大きな禍根を残すというのが、プーチンの下した結論であり、過激な「革命」を忌避するようになる。