春樹は最強の「センス」のもち主

じつは文学の世界も、「必殺技」だのみでは生きのこれないフィールドになりつつあります。

この連載の6回目(>>記事はこちら)にお話ししたように、かつての文学者は、

「この世をこえたすごいもの」

を読者に見せることが使命でした。裏をかえせば、その一点をみたすだけで、「文学的著述のプロ」としてみとめられることが可能でした。

90年代なかばぐらいから、文学者はそうした役割をもとめられなくなりました(このことにも第6回でふれました)。はっきとした「社会的使命」をうしなって、現代日本の文学は、迷走状態にあります。

さらに、パソコンの発達によって、印刷や製本が簡便になり、じぶんの文章を不特定多数の他者に公開することが容易になりました。このため、同人誌市場が発達し、ときには有名なプロ作家が、同人誌に執筆するケースも増えています。

このように、文学的著述における「プロ」と「しろうと」の区別は、いまではきわめてあいまいです。

「これをみたせばプロといえる!」

という絶対的基準はもはやありません。

こうした時代に、「文学的著述のプロ」として生きのこるために必要なのは、やはり「総合力」です。文章にたくみであるだけでなく、情報収集能力やセルフプロデュース能力、体調管理もふくめた自己管理能力が必要になってきます。

これも6回目にのべたことですが、春樹はデビュー当初から、

「『この世をこえたすごいもの』を見せる」

という「必殺技」にたよらない作家でした。着実なペースで執筆できるよう、周到に体調やスケジュールを管理していることは、春樹じしん、しばしばのべています。情報感度がたかく、セルフプロデュースに意をもちいていることは、この連載でもくりかえし指摘してきました。

春樹は、文学状況の変化にさきがけて、「総合力」勝負を選択した稀有の作家なのです。その結果、おおきな成功をおさめたわけですから、「センス=『部分的能力』をつなげるちから」も抜群です。

連載第4回でお話ししたとおり、春樹の小説は、

「作者の思想信条が盛られた容器」

ではありません。

「読者がなかに入りこんでたのしむ、体験型アミューズメント」

としてあつかうのが妥当です。

ほかの作家に対するコメントを見ると、春樹が文章技巧に精通していて、いつでも「名文」を書けることはあきらかです。にもかかわらず、彼の小説には、いわゆる「名調子」はいっさい出てきません。作中世界に読者をすっぽり入りこませ、一体化させるには、過度の文章の美しさは邪魔になる――春樹は、そう考えているにちがいありません。この点をだけ見ても、春樹の「センス=『部分的能力』をつなげるちから」のしたたかさがわかります。