六畳一間の元豚舎で太もやし栽培に挑戦し続けた

私が初めて自分で事業を始めたのは26歳の時でした。中学を卒業後に集団就職で川崎に行き、電線を巻くドラムを造る工場で住み込みで働きました。5、6人の先輩たちと部屋で寝ていると、雪深い故郷の真っ白な山々の風景がときおり頭に浮かび、涙が出るほど恋しくてたまらなかったことを覚えています。

20歳の時、その故郷に戻った私はフェライト磁石工場でしばらく働いた後、「太もやし」を作る事業を始めることにしました。会社の名前は「大平もやし店」として、自宅の車庫を改造してもやしの研究を開始したんです。

当時、もやしと言えば細いものが主流で、今では一般的になった「太もやし」は市場にあまり出回っていませんでした。私はそれを作れるようになろうと思ったわけですが、これがなかなかうまくいかない。

五十沢では雪が降るともやしの配達がたちまちできなくなるため、私はしばらくして妻とまだ赤ん坊だった長女と長男を連れて都市部の六日町に引っ越しました。そのとき住んでいた家は、本当に貧しいものでしたね。

親戚に紹介してもらった元は豚舎だった建物で、トイレもガスもないベニヤ板で囲っただけの2階の六畳一間で普段は暮らし、1階に作ったもやし工場で3年間にわたって研究を続けたのですから。工場を改造する際もお金が全くなかったので、自分で秋葉原に材料を買いに行って自作しました。

写真提供=Shogun Maitake
カナダの自社工場で舞茸を生産する大平さん

窓ガラスが直せず、寝ている顔に雪が降りかかる

「もやしはこやし」とも言われるように、とても腐りやすい植物です。ただ、腐るのも早いが成長するのも早いので、栽培方法を研究していると3日に一度は「失敗」を経験します。室内の環境を変えるためにストーブを不完全燃焼させたときは、酸欠になってふらふらになってしまったこともありました。そのようにして、3年の間に何百回という「失敗」を私は経験したことになったのです。

「太もやし」を安定して収穫できるようになるまで、私たち家族は本当に貧しい生活を送り続けました。食べるものが腐りかけたもやししかなかったこともあるし、窓ガラスが割れても修理するお金がないので、ゴザを窓に打ち付けてしのいだ時期もありました。冬になると、その隙間から雪が部屋に舞い込み、眠っている顔に降りかかるようなありさまでした。