古い団地に移り住んで得る幸せ
貧しい女に背中を押されると言えば、水凪トリ『しあわせは食べて寝て待て』もそういう作品である。一生付き合っていかねばならない免疫系の病気が発覚した主人公の「麦巻さとこ」は、疲れが出ないようフルタイムからパートへと働き方を変え、家賃の安い郊外の団地へと引っ越す。
それまでワーカホリックと言っていいような働き方をしていた彼女が、倹約をモットーとする貧しい女になったわけだが、不思議と悲壮感はなく、むしろ資本主義から半分降りたことによる解放感を味わっているように見える。
彼女が移り住んだ古い団地には、昔からの住人(主に老人)が暮らしている。彼らのコミュニティをうっとおしく感じることもあるけれど、都会にはなかったセーフティネットだから、頼もしく感じることもしばしばだ。
かつてのような水準の生活はできないけれど、心にも体にも優しい時間が確保されたことで、さとこは徐々に自分らしさを取り戻していく。都市型生活に疲れている読者は「こんな暮らしもアリだな」と思うに違いない。
沼ちゃんに影響された読者はマンションを買いたくなるが、さとこに影響された読者は団地に住みたくなるだろう。
貧しい男が貧しいまま幸福になる方法はないのか
とある講座でこの作品を読んだとき、女性よりも男性参加者が熱心に読んでいたのをいまも思い出す。彼らが言うには、男性向けのお仕事マンガはサラリーマンの出世を描くものが多く、働けなくなった人や、別の働き方を望んだりした人のことは、あまり教えてくれないのだという。
男らしさの押しつけがしんどい男性読者にとって、ひとつの仕事に一生を捧げるパワフルな男の人生ばかり読まされるのは、エンパワメントではなく苦行だろう。貧しい男はなにがなんでも成り上がらなくちゃいけないのか。貧しい男が貧しいまま幸福になる方法は本当にないのか。さとこのような生き方、働き方をもっと読みたい(知りたい)と語る彼らの思いは切実だ。
女子マンガの世界には、さとこや沼ちゃんのようなキャラクターがふつうに存在しているけれど、男性向け作品には滅多にいないと知って、なんとも言えない気持ちになった。貧しい男が穏やかに肯定される物語が、この国でなぜ生まれにくく、売れにくいのか(需要はあるのに)。そこにこの社会の病理が透けてみえる、と言ったら言いすぎだろうか。