貧しい女に「萌えてしまう」感覚

女子マンガのご先祖さまとも言うべき明治・大正の少女小説を読んでいると、貧しい女の物語には昔から一定の需要があるのだとわかる。父を病気で亡くして苦労する母娘の話や、両親を亡くしたお姉ちゃんが弟を養おうとがんばる話や、家計補助のために職業婦人になる女の話、などなど。どの作品においても、貧しさからくる困難がある種の「エモさ」を喚起する仕掛けになっている。

貧しい女の人生は、かわいそうで、健気で、だからこそグッときてしまう。貧しい女に萌えてしまうこの感覚、善し悪しはともかく、フィクションであれば許される(ということになっている)感覚であり、わたしにも身におぼえがある。

1979年生まれのわたしにとって幼少期の娯楽と言えば、テレビアニメ「世界名作劇場」シリーズを観ることであり、それは貧しい女の宝庫でもあった。『赤毛のアン』も『私のあしながおじさん』も、みんな貧しい女の子が主人公だ。

なかでもとりわけ貧しかったのは『小公女セーラ』。良家の子女「セーラ」は、父親の死という運命のいたずらによって、極貧の小間使いへと転落する。女子寮の一等いい部屋から、屋根裏のボロ部屋へ。壮絶ないじめに遭いながらも前向きに生きようとするセーラのことが、わたしは大好きだった。

セーラごっこをやったこともある。「本当は超お嬢様なんだけど、いろいろあって今はこんな暮らしをしているの……」という設定で家事を手伝うと、むちゃくちゃ捗(はかど)った。本気の貧困など経験したことのない人間が貧しい女を演じてうっとりするのは、なかなかにいびつな構図だが(昔のわたしよ、貧困をエンタメ消費するな)、幼いわたしにとって、セーラのかわいそうな境遇は本当に魅力的だった。

苦難に耐えた貧しい女が男に救済されるストーリー

ラスト近くになって、セーラは貧乏暮らしからの脱出に成功する。亡父の盟友がやってきて、実はセーラに多額の遺産があると教えてくれるのだ。セーラをいじめていたやつらにはそれ相応の罰が与えられ、彼女をいじめなかった者にはそれ相応の厚遇が約束され、物語は幕を下ろす。

セーラの物語は「苦難に耐えた貧しい女は、いずれ救済され褒美を与えられる」というメッセージを含んでいる。そして、その褒美を与えるのは男だ。それってつまり、ある種のシンデレラ・ストーリーであり、非現実的なおとぎ話なんじゃないだろうか。そう考えると、昔のようにはうっとりできないわたしである。

できることなら、貧しい女がもっと別の形で幸せになる手立てが欲しい。男の助けをただ待つだけなんて、つまらないじゃないか。