孤独から逃れようとして、かえって孤独になる

自分が孤独であると感じるか否かは、外的条件に関係なく、他者との結びつきをどう捉えるかによる。孤独感から逃れたいがためにいつも誰かと一緒にいなければならないと思う人は、たしかに他者とのつながりを求めてはいるのだが、他者を孤独から逃れるために必要な人だと見ているので、自分の期待を満たしてくれない友人に満足できなくなる。

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自分の必要のために友人を利用しようとするような人のまわりには誰もいなくなる。孤独から逃れようとして、かえって孤独になるのである。

他方、孤独を感じないために誰かと一緒にいる必要などないと思って、一人でいることを何とも思わない人は、孤独を感じることはない。

孤独死を恐れる人が本当に恐れているもの

孤独を感じるのは生きている時だけではない。死ぬ時に誰にも看取られることなく一人寂しく死んでいきたくない、孤独死は怖いと思う人がいる。そのような人は、死そのものを恐れているのではなく、一人で死ぬという死の条件を恐れているのである。

たとえ死ぬ時に一人ではなく家族に看取られて死ぬという幸運に恵まれたとしても、人は皆一人で死ななければならない。その意味で死は絶対の孤独である。

石橋秀野に次のような俳句がある。

蝉時雨子は担送車に追ひつけず

石橋は肺を患って38歳で亡くなった。この時、娘は6歳だった。娘は母親が担送車(ストレッチャー)で救急車まで運ばれていくのを泣きながら追いすがった。娘の泣き声は蝉時雨の声にかき消されて聞こえなくなった。秀野が句帳に青鉛筆で走り書きしたこの句を最後に句帳は「永遠の空白」になった(山本安美子『石橋秀野の一〇〇句を読む』)。