街に出ると家の中のような注目は得られない
次に、他者と結びついていることが人の基本的なあり方だと書いたが、どのように人と結びついているかが、人が孤独を感じるか、感じないかに関係してくるということである。
常は皆の注目の中心にいたい人がいる。学校に行かなかったり、引きこもっていたりしていると、親を始めとするまわりの大人から早く学校に行けとか働けというようなことをいわれる。そんなことをうるさくいわれたら嬉しくはないだろうが、そういわれている限り、家庭という共同体においてその中心にいることができる。
ところが、外に出るとどうなるか。学校や会社に行くことは当然のことなので、誰もそのことをほめたりしない。病気で弱っている時は心配してもらえるが、回復すると注目されなくなるのと同じである。
街の中に出ていくと、自分のことを知っている人は誰もいないので、自分がたくさんの人の中の一人でしかないことを知ることになる。外では家の中にいる時とは違って、格別の注目を得ることはできない。その時、孤独を感じるのである。
一人で寛げるのに、孤独感に襲われるのはなぜか
そのような人は、一人で部屋の中にいる時も孤独だが、大勢の中にいるといっそう孤独を感じるので、一人でいることを選ぶ。三木が「ひとは孤独を逃れるために独居しさえするのである」というのはこういう意味である。しかし、そのような人が大勢の人の中での孤独を逃れ一人でいれば孤独ではないかといえばそうではないだろう。
それでは、どうすれば孤独を感じないですむのか。一人でいる時、いつも必ず孤独であるわけではないことに気づかなければならない。一人でいると寛げる時があるはずである。しかし、一人でいると寛げる人が孤独感に襲われる。一人でいる時間に寛げることと、孤独感に襲われることとの違いはどこから生じるか考えてみなければならない。
一人でいることも、大勢の人の間にいることも、「外的な条件」でしかない。孤独を感じるかどうかは何かの条件によるのではない。一人であっても、他者と一緒であっても、孤独を感じる人もあればそうでない人もいる。人が置かれている状況がこうであれば必ず孤独を感じるのではないということである。