無事生き延びた岸は、昭和54年まで衆議院議員を務め、自民党では最高顧問の職にあった。彼の派閥(岸派)は福田赳夫に引き継がれ、この福田は後述する田中角栄と、佐藤栄作の後釜をめぐる激烈な政治闘争(角福戦争)を演じることになる。岸は福田の後見人であり、まさに黒幕として小さくない発言力を持っていたことだろう。
また、実弟の佐藤が4選目にまで総裁任期を伸ばそうとしたが、そこまで任期が延びると福田らのライバルの田中が力を増しすぎると考え、岸が佐藤を止めたなどのエピソードも残っている。
秀吉になぞらえられた庶民総理
「今太閤」「庶民宰相」と呼ばれた田中角栄は、太閤こと天下を取った豊臣秀吉が足軽の生まれとされるように、新潟の豊かとは言えない農村地帯の出である。上京して建設会社で働きながら専門学校を卒業後、建築会社を設立する。
昭和22年(1947)に衆議院議員に初当選を果たした時の所属は民主党で、その後、民主自由党に移るも炭鉱国有化をめぐる疑獄事件で逮捕。しかし、東京拘置所内から選挙に出て当選し、裁判でも最終的に無罪を勝ち取る。
保守合同で誕生した自民党において、佐藤派の要人として頭角を現わしていき、岸内閣で郵政大臣を務めたことに始まり、次の池田内閣で政務調査会長、続いて大蔵大臣。佐藤内閣では大蔵大臣、幹事長、通産大臣など要職を歴任する。
その佐藤の後継者をめぐり、福田赳夫と争った一件は「角福戦争」と呼ばれ、戦争と名が付くほどの激しい政争であったが、田中が勝利。昭和47年(1972)、佐藤退陣後に自民党総裁、そして総理大臣についた。
決断力と実行力、そして豪快な金遣い
田中内閣での最大の功績は、就任同年の9月の日中国交回復がよく知られている(正式に日中平和友好条約が締結されたのは6年後、福田赳夫内閣の時)。自身の主張である「日本列島改造論」(工業地帯を地方に分散し、それらを高速道路・新幹線で結ぶ国土開発構想)を実行し、その結果として「狂乱物価」と呼ばれるインフレを巻き起こした。
田中は「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれる決断力と実行力の持ち主だった。非常に気前よく太っ腹な人物としても知られており、金を配って人を助けたり、好かれたりするエピソードは枚挙にいとまがない。「対立する派閥の議員が入院するとたびたび見舞っては大金を渡した」「料亭では芸者だけでなく仲居にもお金を渡した」などなど。
金にまつわる逸話も多く、「金は必ず手渡しをする」「相手が相場と感じるのと同じか低い金額では死に金どころかマイナスだ」「渡した金の半分はどこかへ行くだろうが、残った金が生きた金になる」などが伝わる。