勾留、公職追放を経て政界へ進出

このような戦前・戦中の活動もあり、岸はA級戦争犯罪人容疑者として逮捕される。しかし、起訴はされず、容疑者のまま3年の間、巣鴨プリズン(東京都豊島区)に勾留された。

岸信介(写真=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

釈放後も公職追放のために政界への進出はかなわなかったが、サンフランシスコ講和条約成立後に公職追放が解除されると、日本再建連盟という政党を経て、自由党へ入る。ただ、実弟の佐藤が「吉田学校」の主要人物であったのに対し、岸は反吉田派へ接近し、鳩山とともに日本民主党を結成すると、幹事長を務めた。保守合同でも大きな役目を果たし、自民党の初代幹事長に就任している。

鳩山引退後には自民党総裁選挙に出て石橋湛山とギリギリの争いを演じ、決選投票で敗れる。その後は石橋内閣の外務大臣を務め、石橋が急病で倒れたため、代わって総理大臣になった。

「悪運というのは強いほどいい」

総理大臣としての岸は、日米安全保障条約(日米安保)の改定をめぐる騒動(いわゆる60年安保闘争)で、よく知られている。サンフランシスコ講和会議で結ばれた日米安保にはアメリカ軍による日本防衛の義務が明記されていなかったり、アメリカが日本国内の内乱に介入することができたりなど、条約は一方的で非対等であった。これを対等的なものにしようとつとめたのが、岸であった。

岸は昭和35年(1960)のドワイト・D・アイゼンハワー米大統領の訪日に間に合わせるべく、新日米安保(日米安保を改定し、アメリカの日本防衛義務などを明記した)を国会で強行採決したが、活動家だけでなく一般大衆も含めて激しい反発を招き、国会議事堂を取り囲む大規模なデモが起きてしまった。「安保反対」が流行り言葉になり、当時、5歳だった安倍晋三(岸の孫)までが訳もわからず口にしていたという。最終的に大統領の訪日は延期となったが、安保改定自体は行なわれ、岸もこれを最後の仕事として総理大臣を辞任した。

なお、岸の退陣は病床でのことだった。後任の池田勇人の就任祝賀会の席で襲撃され、ナイフで足を数箇所、刺されたのである。襲撃者は殺す気はなかったと証言したが、岸が重傷だったことは間違いない。襲撃での命拾いといい、ここまでの生涯を見ても、岸という男は実に運がよく、本人も「悪運というのは強いほどいい」と語っていたという。