遠慮なく被害を訴えていくべき

ぼくの葛藤の内容は、「被害を訴えることをやめろ」とか「訴えかたに配慮をしろ」といったことを主張するものではありません。被害者は、遠慮なく被害を訴えていい。『宗教2世』(太田出版)の編者・荻上チキ氏のつぎの指摘は、ぼくの問題意識とかさなるものです。ウェブ記事からの引用で少し長くなりますが、お読みいただけたら幸いです。

被害を受けた宗教2世が声を上げることで傷つく方は当然いるでしょう。特定の企業や省庁でハラスメントがあったことを告発したときに、声を上げた当事者に対して、「あなたのせいで評判が傷つく」という攻撃が行われることはこれまでも見てきました。しかし、宗教的虐待の被害者が声を上げることには二つの正当性があります。

一つは、被害体験そのものを認めることや、言語化することは、それぞれの回復や健康のために、そして権利回復のためにも重要だということです。もう一つは「気づきを与えるための正当性」です。

例えば、ハラスメントをした人に対して「あなたがやっていることはハラスメントです」と言うと、加害者側も「傷つき」はします。しかし、それは相手の痛みへの気づきを得るために不可欠です。また、被害を受けた宗教2世の発言を封じ込めてしまえば、教団は自らの改善の機会を失ってしまう。教団という非常に大きな権威に対して個人が告発している、親に対して子どもが抵抗している(中略)問題はその告発などの妥当性であり、「傷つくかどうか」だけで止まっていい問題ではありません。

葛藤があるからこそ、語っていきたい

これを踏まえたうえで、ぼくは葛藤を抱えつつ、いえ、葛藤を抱えているからこそ、宗教2世にかんする「語り」をもっと豊かにしていければと考えています。

写真=iStock.com/Jorm Sangsorn
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被害の当事者が被害をより的確に、縦横に表現できるようなきっかけとなる言葉を編んでいきたい。つむぎだす言葉の解像度を高めていきたい。また実際の事情はもっと複雑なのに、「教団や親が加害者で、被害を受けた信者・元信者が被害者である」と見なされて議論されがちな状況を打破したい。

宗教2世の「被害」に偏りがちな今般の「宗教2世語り」によって、新たに生きづらさを抱く人が出てくる可能性も減らしたい。ぼくは、そこに自身が寄与していければと願っています。

宗教2世が自分らしさを押し殺すことなく本音で生きることは、ときに難しい。そう感じた経験が、ぼくには無数にあります。その一端をこの本にしるしてきましたし、そういった経験が処世術に結実しています。