退会することで生きづらくなるリスクも
もちろん、退転状態のぼくは、一部からは村八分のような扱いを受け、学会内では腫れ物にさわるような接しかたをされたりもしました。ぼくのことを「創価学会の危険因子だ」と見る人もいるくらいです。この状況にあって、ぼくが「退会」まですると、その度合いが格段に高まります。
ぼくが退転の状態でとどまっているなら、それなりに多くの学会員が、ぼくの危険性について、「確証はない」と判断するかもしれません。ですが、退会すると、「ああ、正木はほんとうに退転したんだ」と認識する学会員が出て、そういった人から攻撃を受けたり、「あそこの家は、とうとう脱会者を出した」といったレッテル貼りにあったりするなど、不利益を被る人が、ぼくだけでなく、ぼくの家族や親族、友人から出てこないともかぎりません。
だから、ぼくはやめないのです。創価学会に所属したままであっても、自由にべつのなにかを信仰をすることはできます。信仰をしないということもできます。そういった宗教2世の生きかたもあるのです。
ぼくは、じつは「やめる/やめない」にはあまり関心がありません。そこで葛藤はしていないんです。むしろ、べつのところで葛藤を抱えています。
「宗教2世=被害者」という報道が多いが…
宗教2世にはさまざまな人がいます。置かれている境遇は、教団によっても、また家庭や個人によっても異なります。たとえば創価学会2世だけを見まわしても、信仰に熱心な人もいれば、教団に所属しているだけの人もいる。信仰活動に消極的な人や、教義には関心があるけれど実践はしない人、組織は嫌いでも“池田先生”は好きだという人もいます。
現在のぼくは「教団に所属しているだけの人」にあたるでしょう。もちろん、なかには脱会した人もいる。2022年からつづいている宗教2世の報道では、宗教2世の「被害」ばかりがクローズアップされる傾向にありますが、宗教2世のなかには、なんら被害を受けることなく、平穏に過ごしている人もたくさんいます。一方で、やはり深刻な被害を受けている宗教2世もいる。
宗教2世というと、ともすると「カルト宗教の子だからかわいそう」とか、もの珍しげに見られる対象になっているとか、そういう扱いかたをされたりしますが、現実の宗教2世は、かくも多彩なのです。それにもかかわらず、宗教2世の被害者に偏った報道ばかりがなされていくと、どうなるでしょうか。
個々それぞれで異なるはずの信仰者や教団が、「宗教」という言葉によってひとくくりにされ、ネガティブなイメージをまとってしまいます。