無名の町医者が天然痘を克服する方法を確立
イギリス西部の田舎町バークリーで町医者をしていたエドワード・ジェンナー(1749〜1823年)は、自分の息子にも人痘を接種していましたが、より安全な方法を探し求めていました。
ある日、ジェンナーは牛飼いの娘から、次のような話を聞きました。
「私たちは牛痘にかかってるから、天然痘にはかからないの」
牛痘とは、ウシが発症する天然痘によく似た病気で、ウシの乳房に水疱が生じます。乳搾りを通じて人間にもうつりますが、人間は皮膚に水疱ができるくらいで大事には至らず、回復します。
その話を聞いて、ジェンナーは考えました。
「牛痘に対する免疫が、天然痘に対する免疫になっているのだろうか。これは実験で確かめる必要がある」
1796年、ジェンナーは、乳搾りの娘サラにできた水疱からとった液体を、ジェンナー家の使用人の子である8歳のジェームズに少しずつ接種してみました。ジェームズ少年は微熱を出しただけで回復しました。これで免疫ができたと判断したジェンナーは、6週間後に本物の天然痘(人痘)をジェームズに接種してみました。彼は、まったく発症しませんでした。
ジェンナーはついに、天然痘を克服する安全な方法を確立したのです。
「ワクチン」はジェンナーの造語
翌年、彼はこの成果を論文にまとめ、ロンドンの王立協会(自然科学に関する最高権威)に送りましたが、大学も出ていない無名の町医者の論文がまともに扱われることはありませんでした。しかしジェンナーはへこたれず、さらに2件の症例を追加した研究結果をまとめた報告書を自費出版し、大反響を呼びます。
「ワクチン」もジェンナーの造語であり、ウシを意味するラテン語の「ウァッカ(vacca)」から名づけられました。ジェンナーはあえて特許をとらず、種痘の技術を無償公開することで、その普及に貢献したのです。
反対派は、「牛痘を接種するとウシになる」などの俗説を広めましたが、天然痘の恐怖から解放されたいという人々の願望は強く、1801年までにイギリスでは10万人に上る人が接種を受け、海外のフランスやスペインのほか、植民地にも広まりました。イギリス政府は1840年、ジェンナーの種痘法を公認し、人痘の接種を禁じました。
日本には幕末に長崎経由でオランダからもたらされ、大阪の緒方洪庵、伊豆の江川太郎左衛門英龍ら蘭学者のネットワークを通じて普及しました。
あらゆるワクチンには副反応のリスクがあり、種痘の場合も乳幼児が脳炎を併発して死に至る場合もありました。1970年代には北海道で集団訴訟も起こり、また天然痘の発生自体が稀になったことから、厚生省は集団接種をやめています。その病気に罹ることのリスクと、ワクチン副反応のリスクとを天秤にかける必要があり、それを判断するためには、公的機関による情報開示が必要なのです。