感染症が流行したとき、古代の人たちはどのように対応したのか。駿台予備学校世界史科講師の茂木誠さんは「奈良時代の日本では天然痘が大流行し、当時の日本の人口の25~35%が亡くなった。これを受けて聖武天皇は、疫病退散の祈願をさせただけではなく、食料の配給と減税といった緊急経済政策を実施した」という――。

※本稿は、茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

平城宮跡に復元された朱雀門
写真=時事通信フォト
奈良市で開催されている「平城遷都1300年祭」のメーン会場の平城宮跡に復元された朱雀門。午前9時の開門時には、奈良時代の警護を担当していた衛士隊えじたいの儀式が再現されている(2010年4月16日、奈良市)

朝鮮半島をめぐる東アジアの合従連衡

そのころ、大陸でも動乱が続いていました。まずは新羅の朝鮮半島統一です。当時の朝鮮半島は、北の高句麗、西の百済、東の新羅が合従連衡がっしょうれんこうを繰り返していた朝鮮三国時代にあたります。

基本的には西の百済が日本と組んで、新羅と戦っていたのですが、618年に中国大陸で唐が成立し、高句麗との緊張が高まると、新羅は唐に朝貢して同盟関係を結び、唐・新羅連合軍は660年に百済を攻め滅ぼすことに成功しました。

国を失った百済の王族・貴族が日本に亡命して中大兄皇子に援軍を求め、それに応えて日本は黄海で唐・新羅連合軍と交戦し、惨敗します。これが有名な白村江はくすきのえの戦い(663年)です。唐の日本遠征を恐れた天智天皇は内陸の近江大津宮おおつのみやに遷都し、九州の守りを固めました。

ところが、唐の日本遠征は実現しませんでした。新羅との関係が急速に悪化したからです。百済を滅ぼしたあと、唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼします(668年)。この結果、高句麗という緩衝国家をなくした唐と新羅は国境を接するようになり、朝鮮半島の統一をもくろんだ新羅と、朝鮮半島を支配下に置こうとする唐との対立が激化したのです。「隣国同士は敵」――地政学の鉄則です。

4カ国は同盟のために使者の派遣を繰り返した

唐は大国であり、新羅単独では勝ち目はありません。そこで新羅は日本に急接近しました。天武天皇5(676)年から称徳天皇6(769)年まで、新羅は遣日本使を36回派遣しています。

一方、日本は大宝2(702)年に遣唐使を再開しますが、朝貢は拒絶して対外的に「日本」という国号と「天皇」という君主の称号を用いました。君主の称号は国内では「スメラミコト」ですが、中国人に理解できるように漢語で「天皇」という称号を採用し、唐の皇帝との対等な関係を主張したのです。

このとき、唐の都・長安では、則天武后そくてんぶこうがクーデタで政権を握っており、このゴタゴタに乗じて、旧高句麗領の人々が唐から独立し、「渤海ぼっかい」という国を建てていました。もともと渤海は高句麗の末裔まつえいですから、新羅は敵国です。

そこで、新羅の向こう側にある国――日本との同盟関係を求め、渤海王が朝貢使節を奈良・平城京に送ってきます。それを見た新羅は天平7(735)年に日本へ使者を派遣した際、日本への朝貢を廃し、国号を「王城国」に変える、と日本側に通告したため、激怒した日本側はその新羅使を追い返してしまいます。