大陸への窓口である大宰府管内で天然痘が発生
まさにこの天平7年、大宰府管内で疫病が発生します。公式記録である『続日本紀』には「豌豆瘡」と書かれています。エンドウ豆のかたちをした「瘡」、すなわち発疹が現れたという意味です。これはほぼ天然痘のことでしょう。
大陸への窓口である大宰府管内で発生したのですから当然、大陸から入ってきたと考えるのが合理的ですが、新羅から入ってきたのか、唐から入ってきたのかはわかりません。新羅使の来航に加え、第9回(第10回とも)の遣唐使が734年末に帰ってきたからです。
同じ時代に唐や新羅で天然痘が流行した記録があるかを調べてみましたが、確認ができませんでした。もしかすると大陸では過去に天然痘の流行が繰り返されていて、人々は免疫を保持しており風土病のようになっていた。だから歴史書への記述が見当たらなかったのかもしれません。
いったん病原菌が入るとエピデミックになりやすい
一方で日本列島は大陸との接触が少ないために病原体が流入せず、結果として免疫がないので、いったん病原菌が入るとエピデミックになりやすい。マクニールの指摘を引いておきましょう。
日本の地理的位置は、当然この列島を海の向こうの大陸にはびこる病気との接触から隔離するものであった。しかしながら、これは一概に幸運とばかりも言い切れない。島国で孤立しているという状態は比較的稠密な人口の形成を許すが、それはまた、もし何らか未知の感染症が間を隔てる海を跳び越え日本列島に侵入した場合には、悪疫による異常な災厄をもたらすことにもなるのだ。
(『疫病と世界史(上)』)
(『疫病と世界史(上)』)
6世紀の仏教公伝の時点で、天然痘はすでに日本列島に入っていました。しかし、世代交代やウイルスの変異によって免疫が失われていた可能性があります。ヨーロッパなどの記録によると、同じ感染症が数十年ごとに流行を繰り返していることがわかります。免疫のついた世代が他界し、免疫のない新しい世代が多数派になると、再び大流行が起こるのです。
先に記したように、遣唐使は天智8(669)年を最後に大宝元年までいったん中断しますが、そのあいだは大陸との接触がほぼなかったために、ウイルスが入ってこなかったのではないでしょうか。