聖武天皇は食料の配給と減税を命じた

聖武天皇は各地の寺社に疫病退散の祈願をさせただけではなく、実効性のある緊急経済政策も実施しています。1つは食料の配給。高齢者、寡婦、独居老人、重病人で自活できない者に対し、役所が必要に応じて物資を支給せよと命じたのです。

もう1つは減税。被害の大きかった九州を統括する大宰府が、管内の諸国で「瘡のできる疫病」が流行し、人民はことごとく病臥びょうがしているため、今年度の特産品を納める調ちょうの貢納の停止を求める訴えをしました。聖武天皇はこれを認め、1年間を無税とします。翌年には穀物を納める田租も免除しています。

当時の人々はこの災厄について「長屋王の祟り」であり、ゆえに藤原4兄弟が全滅した、と見なしました。そこで、聖武天皇は光明皇后の訴えを聞いて全国に国分寺と国分尼寺を建立させ、さらに国分寺の総本山として東大寺と大仏を、国分尼寺の総本山として法華寺を平城京に建立しました。

東大寺の大仏
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光明皇后は孤児や困窮者を救うための「福祉施設」を開設

奈良の大仏は、疫病を祓う目的で造立されたのです。光明皇后は貧しい病人を救うため、施薬院せやくいんを開いて無料で薬を分け与え、孤児や困窮者を救うための悲田院ひでんいん――いまでいう福祉施設なども開設しています。

光明皇后、聖武天皇はともに発症を免れましたが、結局、もとい王に代わる世継ぎの男子を得ることはできませんでした。聖武天皇は自身の血統を継がせるため、皇女を皇太子に指名しました。これが孝謙天皇です。

孝謙天皇も長く病気に苦しみ、その介護を通じて権力を握ったのが、怪僧・道鏡どうきょうであるとされています。藤原氏の影響力は弱まり、クーデタが繰り返される不安定な政情のまま、やがて平安時代を迎えます。