「天平の疫病」と同時期に天然痘が大流行したアッバース朝

「天平の疫病」と同時期に天然痘が大流行した国はないかと探したところ、見つかりました。アッバース朝イスラム帝国です。ウマイヤ朝を倒した初代カリフ(最高指導者)のアブー・アル=アッバースが天然痘で亡くなっています(754年)。

アッバース朝と日本は遠く離れているので接点はないかと思いきや、ありました。前年の753年に唐の長安で起こった席次争い事件である「天宝争長てんぽうそうちょう事件」です。

これについては拙著『世界史とつなげて学べ 超日本史』(KADOKAWA)にも記しましたが、かいつまんで説明します。唐の玄宗げんそう皇帝が主催した新年の朝賀の宴が長安で開かれました。東の席次1位は新羅、2位がアッバース朝(中国名は「大食タージー」)でした。西の1位がチベット(吐蕃とばん)、2位が日本となっていました。

日本とアッバース朝の遣唐使は、隣でご飯を食べていた

これを見た日本の遣唐副使である大伴古麻呂おおとものこまろは抗議します。

茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』(KADOKAWA)
茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』(KADOKAWA)

「日本を2位にして新羅使を1位にするのは理に反する。なぜなら新羅は日本の朝貢国だからだ」。すると唐の担当官は日本側の抗議を認め、新羅と日本の位置を入れ替えたのです。

この結果、東の1位が日本、2位がアッバース朝になりました。つまり、日本の遣唐使とアッバース朝の遣唐使が隣でご飯を食べているのです。

このタイミングで感染が起こった、とまでは申しませんが、この使節団が帰国した翌年、アッバース朝の皇帝(カリフ)が天然痘で亡くなっているのです。日本人や中国人はすでに天然痘の免疫をもっていて、アラブ人はそうではなかった可能性はあるでしょう。

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