先輩の妻との関係を続けたくて先輩を手にかけた染め物職人
情欲に起因する殺人事件は、いつの時代も、どこでも、そして不思議な具合で起きる。
長野県中部出身の28歳の染め物職人は同業者の先輩宅に住み込みで働いていたが、20歳上の同業者の妻と通じるようになった。1900年3月下旬、染め物職人はその妻との関係をつづけたくてついに先輩を殺してしまった。これが一、二審の裁判で認定され、死刑判決を受けた。ところが上告審になって染め物職人は、殺したのはじつは女のほうで、自分は使嗾されて遺体を埋めるのを手伝っただけだという「新事実」を明かした。それによると、あらましこうだった。
先輩の妻は、夫がなかなか賭け事を止めないので注意すると暴力を振るわれ、このままでは死ぬしかないと訴えた。驚いた染め物職人が止めたところ、一緒になってくれれば思いとどまると言い寄るのだった。その後も女は、夫には将来の見込みがないから一緒になりたいなら、始末してほしいと再三にわたって夫殺しを持ちかけたが、染め物職人は同意しなかった。
ある日の夜、女がやって来て、今しがた夫を殺したので死体を片付けてほしいというのであった。言われたとおり、男は遺体を先輩宅の土蔵脇の土中に埋めた。そうであれば殺人ではなく、死体遺棄である。
教育が足らず情欲を抑えきれなかった
上告審判決はしかしこの「新事実」を斥け、一、二審どおりの死刑判決であった。
田中は上告審での染め物職人の申立てを聞いたが、どちらが真実かはわからなかった。いずれにしても「もはや詮ないこと」と思った。田中の見たところ女は相当に老獪で、わけても色の道にかけてはなかなかの手だり、経験も豊かだった。28歳の男は女に翻弄され、痴情の果てに先輩殺しへ走ったか、あるいは荷担させられた――田中はそう判断した。だがじつはこの男には妻も乳飲み子もいたのである。
情欲に溺れて犯した罪の深さを悔い改めるように説く田中の教誨に、28歳の青年は夢から醒めたようにはっとしてうなだれるのだった。青年は情に厚かったが、教育が足らなかったために理性に乏しく、強い情欲を抑えられなかったと田中は見ていたようで、それが凶行に及んだ原因の一つだと判断した。