田中はここでも色情による犯罪に対して死刑不必要と述べ、長く拘禁してじっくり教誨すれば「必ず改心者となるものと信ずる」に、傍線を引くように記している。田中はさらに付け加える。
「毎時ながら、恋情殺人罪の如きは、いつまでも社会に害毒を流すものに非ず。殺すの必要なきものなり」
田中は「恋情殺人罪の如き」の前に「毎時ながら」ということばをわざわざ置いた上で、「(情欲殺人は)社会に害毒を流すものではない」からという理由を挙げている。これは刑事政策上からではなく、やはり長い教誨体験から、情欲によって殺人を犯してしまった犯罪者には、死刑で生命を奪うのではなく、「再生」の道を探ってじっくりと時間をかけた教誨こそが必要だと田中は強調したかったのであろう。
不倫関係の末夫を殺害し死刑囚となった男女
事件から9年後に捕まって死刑囚になった男女がいた。
長野県小県郡出身の2人の男女による殺人事件が起きたのは1891(明治24)年夏である。男は28歳の時に商売を営んでいた他家の養子となり、そこで迎えた妻が病死し、それから放蕩がはじまり、しげく通うようになった料理店の妻と好い仲になる。いつとはなしにそれは店の主人に気づかれ、2人は愛を遂げるには店主を亡き者にするしかないと、7月のある日知人と酒を飲んで泥酔していた店主を襲って殺害した。
男は33歳、女は31歳で3人の幼子を置き去りにして一緒に東京へ逃げる。それから9年の歳月が流れた。だが2人の犯罪は発覚し、逮捕され、ともに死刑判決を受けた。
田中の教誨に男は犯した罪を深く悔いるようになった。田中は手記の「備考」欄で、「噫、色情より起こりし犯罪の如きを、死刑に処するは真に無益の刑と言うべし」と死刑は無益だとまで断じている。つづけて「(情欲殺人は)生命を絶つまで(社会)に害毒を流すべきものに非ず」という持論をくり返す。「(2人は)犯罪当時より九年間の長年月、東京に潜匿なりしも、何らの社会に対して不良行為あることない」のがその証だからだという。
社会に害悪のない者は「死刑にするには及ばず」
田中は女監で3人の子の母だったこの女性の教誨も担当した。郷里から逃げて9年間、女性は義母や子どもたちのことが気になりながらも、罪を背負っての生に嘖まれて便りも出せなかった。それを聞き及んだ藤澤典獄が女の出身地の役所などで子どもたちのその後を調べ、そのおかげで女性は処刑前に詫びの手紙を家族に出すことができた。
田中の教誨の折りに女性は、郷里を逃げたとき三女はまだ8つで、右の手に火傷をし、包帯をして痛みをしきりに訴えながら眠っていたのを、「鬼か蛇か」のように見捨ててしまったと咽びながら語るのだった。藤澤の調査で8つだった子が結婚したことも死刑執行の日の朝に知らされた女性は身体を震わせて慟哭した。
藤澤の加害者への温情豊かな寄り添いについて田中は手記のなかでしばしば言及しているが、ここでは典獄と教誨師の2人の温情が一つの物語になったようでもあった。田中は処刑されたこの女性についての「備考」欄でも「死刑を行なうの益なき」と結んでいる。
2人の死刑執行は1900(明治33)年5月29日、同じ日であった。
手記には、情欲に絡んだ殺人事件は十数件を数えるが、いずれについても田中は「死刑の必要なし」「死刑にするには及ばず」「死刑は無益なり」などと言い切っている。