「教誨を続ければ必ず良心は育っていく」
獄中でのこの男性は犯した罪に悩み、苦しみ、打ち沈むことが多く、しばしば田中の教誨を求めた。情欲に引きずられ、罪に苦しむ男の姿に田中は改めて、やはり長く監獄に拘禁し、教誨をすれば必ず良心が育っていくにちがいないと確信するのだった。死刑執行は、1903(明治36)年の春3月16日午前だった。
執行直前、青年は田中に礼を述べ、母と妻宛に遺言書を認め、発送を頼んだ。「これまた死刑の必要を認めざる」と田中は手記の終わりのほうで書き付けているが、どうにもできなかった無念さと苛立ちが押し寄せてくるようだ。
執行後に男の妻が監獄に姿を見せた
この事件には後日譚がある。
死刑執行から5日後の3月21日午前8時ごろだった。すでに常勤の教誨師として監獄教務所長になっていた田中が東京市麹町区の鍛冶橋監獄に登庁してきたところ、門前に24、5歳の若い女性が幼児を背負って泣いている姿が眼に留まった。
〈朝早くにだれだろう〉
訝しく思った田中が門衛に尋ねた。
「だれかね?」
「所長、あの母子はつい先だって死刑になったばかりの男の女房とその子です」
ウム。うなずいた田中は母子を教務所へ案内し、長野からわざわざ来た訳を質ねた。背中の幼子を揺すりながら若い母親は訴えた。
「主人から遺言が届いて、驚いて……生前に会えなくて何とも残念でなりません。せめて墓参だけでもと思って、参ったわけでございます」
天を仰ぐようにしてため息をついた田中は母子を典獄室へ連れてゆき、事情を藤澤に話した。いたく同情した藤澤は東京に不案内だろうからと、署長の馬車を用意させて夫の遺骨が埋葬されている渋谷の埋葬地へと案内させた。おそらく田中も同道しただろう。その日、田中は自宅(このころの田中の住まいが判然としないが、もしかしたら上野の池之端界隈か)に母子を1泊させ、翌3月22日午前8時上野発の汽車で郷里の小諸へ帰した。帰郷後、妻と義父から田中と藤澤に何度も丁寧な礼状が届いた――。
手記には、犯罪と悲劇と人情がからみ合った心揺すぶる話もさりげなく綴られてある。
そんなこともあって田中は「斯くも良き妻がありながら……何ごとぞ」と処刑された青年を批判し、それでも再び「死刑の必要を全く認めざるなり」とダメを押すのであった。