家康が「賊軍の将」に転落した真相

通説では、石田三成は五大老の毛利輝元を大将に仰ぎ、同じく大老の宇喜多秀家、大坂城にいた3人の奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)なども味方につけたので、西軍は10万の大軍になったといわれてきた。

けれど近年、当初は石田三成と大谷吉継の2人だけの小規模な挙兵にすぎなかったので、武将たちは即座に家康の味方になることを誓ったのだという説が登場してきた。

ところがその後、毛利輝元が積極的に家康打倒計画に加担し、自ら秀頼のいる大坂城に入って玉(秀頼)を握ってしまったので、それまで家康方だった淀殿と三奉行も輝元に味方することを決めた。かくして、大老たちや三奉行の署名の入った、家康の違法の数々をあげつらう「内府違いの条々」が作成され、それが諸大名に送付された。この結果、輝元が官軍となり、家康は賊軍に転落してしまったのだと考える学者が多い。

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家康の必死の多数派工作が奏功した

このため、7月末から8月末まで家康は江戸から動けなくなってしまう。本当に賊になった自分に対し、西進する東軍(家康方)諸大名が味方してくれるかを見極める必要があったからだ。なお、江戸にいた時期、家康は劣勢を挽回するため、敵味方の別なくひたすら手紙を書き、多数派工作に全力を尽くした。

ちなみに先発した東軍大名たちは、難攻不落と思われた西軍の岐阜城をあっけなく落としてしまった。このため家康は急いで9月1日に江戸を離れた。だが、中山道から西へ向かっている別働の秀忠軍が遅れていると知る。最終的に家康は彼らの到着を待たずに、天下分け目の戦いに突入していったのである。

関ヶ原合戦は、たった数時間で決着した。それは、西軍の吉川広家をはじめ半数以上が戦いを傍観したことが一因だった。家康の離間工作が功を奏したのだ。ただ、最大の要因は、松尾山に陣をかまえていた西軍の小早川秀秋が戦いの最中にいきなり味方に攻め込んだことだといわれる。