秀吉は生前、家康に天下を譲っていた?

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死んだ。跡継ぎの秀頼は、まだ6歳の幼児である。そこで秀吉の遺言に従い、五大老・五奉行による集団指導体制が敷かれた。ところが家康は豹変ひょうへんし、他の大名と次々と縁戚関係を結び、論功行賞をおこなうなど勝手な行動を始めたのである。これは、あえて豊臣政権を混乱・分裂させ、反対派を武力で倒して政権を奪おうとしたからだという。

この通説に関して、近年、驚きの新説がある。高橋陽介氏によれば、すでに生前、秀吉は家康に天下を譲っていたというものだ。もちろん、秀頼が成人した暁には権力を手放すという約束のうえではあるが……。ともあれ、天下人として振る舞おうとした家康に対し、毛利輝元や石田三成が強く異をとなえ、五大老・五奉行による合議制にすべきだと主張した。そこで違約に驚いた家康が、権力の奪取に動いたのだというのだ。

慶長5年(1600)6月、五大老の上杉景勝に謀叛の疑いがあるとの情報が入った。真偽を確かめるため、家康は景勝に上洛を要求したが、上杉側はこれを拒否。そこで家康は、5万7千の兵を率いて会津征伐へ向かう。この行動は秀頼も了解しているので、豊臣正規軍としての出陣だった。しかし下野国(現在の栃木県)小山まで来たとき、家康は石田三成の挙兵を知った。

「小山評定」はそもそもあったのか論争

家康は武将たちを集めて会議を開き、その去就は各自に任せた。すると三成を嫌う福島正則は「私は徳川殿に味方する」と発言、さらに山内一豊が「居城の掛川城を徳川殿へ差し出す」と述べたので、全員が家康に味方することを誓い、そのまま西上していった。

だが近年、こうした通説に対し、そもそも軍議(小山評定)があったかどうかについて論争が起こっている。なんと、正則は軍議当日、小山(現場)にいなかったと主張する白峰旬氏のような研究者もいる。また、確かに軍議はあったものの、その場所は小山ではないという学者もいる。