※本稿は、河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
奉公から逃げてきた息子に父がかけた言葉
松下電器(現在のパナソニック)の創業者である松下幸之助は、「経営の神様」と呼ばれ、いまなお彼を敬愛する経営者は少なくない。いったい一代でどのようにして成功したのか。じつはそこには、意外な信念が隠されていたのである。
幸之助は、明治27年(1894)に和歌山県海草郡和佐村(現在の和歌山市)で誕生した。父が破産してしまったので、9歳(満年齢・以下同)のときに大阪へ奉公に出されたが、あまりのつらさに、同じ大阪で働いていた父のもとに何度も駆け込んだ。
しかしそのたびに父は「昔の偉人は、小さいときから他人の家に奉公するなど、苦労して立派になっているのだから、お前も辛抱するんだよ」と励ましたという。この言葉は生涯、幸之助の心の支えになった。
楽な仕事をわざわざやめて、松下電器を創設
15歳になると、幸之助は奉公をやめて、大阪電灯に配線工の見習いとして入社する。やがてその仕事ぶりを評価され、わずか22歳で工事検査員に出世した。検査の仕事は、1日3時間で終わる楽なものだったが、「商売で身を立てよ」という亡父の言葉に従い、楽な仕事をやめ大正7年(1918)に松下電器を創設したのだった。もし幸之助が自分の地位に満足していたら、「世界の松下電器」は生まれなかったわけだ。
よく知られているように、幸之助が考案した二股ソケットは大ヒットしたが、続いて長時間使える電池式自転車ランプを開発した。これは、電池がそれまでの製品に較べて10倍も長持ちする優れものだった。だから、必ず売れると確信した幸之助は、大量生産に踏み切った。ところが問屋はどこも相手にしてくれなかったのである。
窮地に立たされた幸之助は、ランプの真価を知ってもらおうと、外交員を数名雇って大阪中の自転車販売店に無料で商品を配り、そのさい「品物に信用が置けるようになったら売ってください。その後、安心できたら代金を払ってください」と言わせた。この捨て身の作戦は見事功を奏し、数カ月もすると、販売店から注文が殺到したという。