関ヶ原合戦の真相にはまだ辿り着けていない

河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)
河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)

ところが近年、秀秋は開戦前から東軍として陣を敷いており、最初から東軍として戦いに参加したという説が登場している。さらには、関ヶ原合戦の前日、松尾山の秀秋が東軍に寝返ったと知った三成が、その近くに布陣していた大谷吉継を救うため、大垣城を出て関ヶ原へ向かい、それを家康ら東軍が追いかけるかたちで天下分け目の合戦が始まったという新説もある。

また、実際の戦いは関ヶ原ではなく、ずっと西側に位置する山中という地域が主戦場であったとか、じつは関ヶ原には西軍によって玉城という巨大な城がつくられており、本当はそこに秀頼や輝元を迎えて東軍と雌雄を決するつもりだったなど、まさに関ヶ原合戦は新説の嵐のような状況になっている。

いずれにせよ、関ヶ原合戦で家康は天下を握ったのである。そう言いたいところだが、それから幕府を開くまで3年もかかっている。これも、徳川の主力である秀忠軍が参加できず、戦功は外様ばかりが挙げたので、関ヶ原合戦では家康は政権を握るまでに至っていないと考える学者もいる。

このように家康をめぐっては、新説の乱立状態なのである。

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