人生には少しくらい無駄があってもいい
たとえば私のように、1人起業して自分が作り出す知的生産物だけで食べている人間にとって、効率性というものはほとんど無縁なのです。
私の場合は、効率よりも効果を重視しています。効率を第一に考えるのであれば、大企業には逆立ちしてもかなうわけがありません。多少効率が悪くても、効果の大きい方を選ぶのが、我々のような零細業者の戦い方なのです。
ましてやビジネス以外の生活や人生を考えた場合、効率だけを重視するというのは、あまり感心しません。なぜならば、前述の篠田さんがおっしゃるように、「用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまう」可能性があるからです。ここでいう“用だけを済ます生活”こそ、まさに効率重視ということになるのでしょう。
昨今話題になっている『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)も、タイパ(=タイムパフォーマンス)といわれる時間効率を重視する考え方なのでしょうが、少なくとも芸術作品を鑑賞する時には、効率性を重視するのはあまり相応しくないのではないかと私は思います。少しぐらい無駄があってもかまわないのです。
お酒嫌いでも宴席が価値を生むことはある
では無駄とはいったい何でしょう。
これは絶対的な価値を測って数値化できるものではありません。あくまでもその人にとっての価値の問題です。
たとえば友人とお酒を飲みに行ったとします。じつをいうと私はお酒が嫌いで、ほとんど飲みません。ですから「お酒を飲む」という行為だけに絞っていえば、私にとってお酒を飲みに行くということは時間とお金の無駄といえます。
でもこの場合、誰と一緒に行くかが価値を決めるのです。たとえ酒は飲まなくても、一緒に語って楽しい仲間であれば、その「場」を持つことに価値があるので、私はお金を惜しいとは思いません。
でも人によっては、酒も飲めないし、そもそもあまり外向的ではないので、そういう席には行きたくないという人もいるでしょう。だからそういう人にとっては、「飲みに行く」という行為は無駄といってもいいでしょう。