家康の最大の「学び」

三つ目は、信玄の戦に対する基本的な考え方を学んだ、という点です。

信玄は常日頃から、「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」と言っていました。その理由は、五分の勝ちは今後に対する励みの気持ちが生じ、七分の勝ちはおこたる心が生じ、十分の勝ち、つまり完全勝利は相手を侮り、おごりの気持ちが生ずるのでよくない、というのです。

こちらが勝ちすぎて相手を追い詰めすぎると、相手に強い恨みを残すこととなり、双方にとって想定外の不都合が起こることにも用心しなければならない、とも信玄は語っていました。

いずれも理にかなったもので、家康は信玄のこの堅実さこそ目指すべきであり、自分のような凡人でも真似ることができる要因を、多く発見したに違いありません。

三方ヶ原の戦いでの家康の最大の「学び」は、ここにありました。大敗した合戦までも、自身の「学び」に大いに活用したのが、この人の真骨頂でした。

実際に家康は、立ち居振る舞いから言葉遣いまで、信玄を見習い、前述したように、徳川軍の軍団編成、軍略・軍法を武田流(甲州流)に変えていくことになります。

作家が驚く前代未聞の行動

名古屋市の徳川美術館に、家康の有名な肖像画「顰像しかみぞう」が残されています。

三方ヶ原の敗戦の後、自ら命じて描かせたといわれるもので、大弱りの顰顔しかめがおのまま、床几に腰かけた家康が描かれています。曲げた左足をかかえ込み、左手を顎に当てながらの、英雄らしからぬ情けない姿です。

徳川家康三方ヶ原戦役画像。別名「顰像」。(図版=徳川美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

近年、この像は、三方ヶ原の敗戦とは関係なかった、との説も生まれました。しかし、三方ヶ原の大敗を家康が反省し、将来の戒めとしたこと。この時期に、人変わりしたのではないか、と思うほどの猛省をしたのは疑いようがありません。

通常、戦いの証拠として絵画を残すのは、勝った側が自らの輝かしい成果を後世に伝えるため、あるいは負けた側をはずかしめるのが目的です。ところが家康は、自分の一番哀れな姿を、子々孫々までの戒めとして残したというのです。もし家康の手によるものなら、前代未聞のことといってよいでしょう。

痛恨の大失敗を見据え、自分を完膚なきまでに打ち破った敵の知恵を余すところなく取り入れたい、その真摯しんしさとトップとしての責任感が、自らの戒めへの証拠を残したというのは、家康の場合、あり得ると筆者は考えてきました。