1572年、徳川家康は侵攻してきた武田信玄の大軍と三方原で対決した。この「三方ヶ原の戦い」は、家康の生涯で唯一の敗戦といわれている。なぜ家康は籠城せず、勝ち目のない野戦に打って出たのか。歴史研究家の河合敦さんは「じつは一家存続のためには、野戦以外の選択肢はなかった」という――。

※本稿は、河合敦『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

「徳川家康三方ヶ原戦役画像」
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(画像=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「慢心の戒めで絵を描かせた」はウソ

徳川美術館に「徳川家康三方ヶ原戦役画像」という肖像画がある。別名「しかみ像」と呼ばれる。

家康といえばでっぷりとした老人をイメージするが、この像は、それとは全く異質といってよい。剝き出した歯で下唇を強く噛みしめ、見開かれた大きな目は血走り、眼孔は落ち込んで眉がゆがんでいる。あきらかに憔悴しょうすいしきった人間の顔である。

じつはこれ、三方原と称する台地で武田信玄の大軍にいどみ、大敗を喫して浜松城に逃げ戻ってきたときの家康の容貌を描いたものだといわれる。

このおり家康は恐怖のあまり、馬の鞍上で脱糞してしまうほどだったそうだ。

だが、家康のすごいところは、ここからだ。どうにか帰城した家康は、ただちに絵師を呼び寄せ、戦に敗れたみじめな自分の姿を描くよう命じたのである。こうして完成した顰像をいつも手元に置いて、家康は慢心の戒めとしていたという。

「さすがは後の天下人」と称賛したくなる行動だ。しかしなんとこの逸話、近年は後世の作り話だったことが研究者の原史彦氏によって明らかにされてしまった。

原氏によれば、顰像が三方原合戦の敗戦での姿を描いたという話は、古くても昭和11年(1936)より前に遡ることができないと述べ、この逸話を全面的に否定している。

それだけではない。さらに、18世紀には家康を描いたものと認知されていたこの顰像だが、別人であった可能性も視野に入れておく必要があると論じているのだ。とはいえ、三方原の戦いが家康にとって人生最大の危機であったことは変わりはない。

三方原合戦の謎

三方原合戦は、元亀3年(1572)12月22日に起こった。大軍(人数は諸説あり。2万~3万)を率いて徳川領内に侵入してきた武田信玄が、家康の本拠地・浜松城に迫ってきたので、家康が城から出撃して衝突した野戦である。

ただ、徳川方は織田信長の援軍を入れても1万1000。相手は2倍から3倍。兵数に大きな差があった。そんな大軍に挑んだ家康の判断は、とても尋常とは思えない。ある意味、はじめから勝算のない無謀な行動だったといえる。

いくら自領を蹂躙じゅうりんされたといっても、浜松城という堅城に籠っていれば、その身はしばらくは安全だったはず。やがては信長軍の応援や、上杉謙信の後方攪乱も期待できたはず。

にもかかわらず、なにゆえ家康は、早々に城を出て戦うという決断を下したのか。本稿では、そのあたりの謎に迫っていく。